概要
清和源氏新田氏支流を名乗る武家・華族家。永禄9年12月(1567年2月)に徳川家康が松平から改姓したのに始まる。
江戸幕府を開いた家康以来、15代徳川慶喜まで、代々征夷大将軍に任官した一族である。明治維新後は宗家と水戸家が華族として最高位の公爵に列せられたのをはじめ、尾張家と紀州家が侯爵に叙せられるなど、12家が華族に列した。
家康がこの苗字を名乗ったのは今川家から独立した際のことである。松平家は三河(愛知県東部)は松平郷(愛知県豊田市)が本貫の国人(在地武家)であるが、家康の祖父松平清康の代から新田氏流の世良田氏の末裔を称した事、およびその世良田氏の祖である世良田義季が「得川」姓を名乗ったと言われている事により、朝廷の許可を得て、復姓を名目に家康個人のみが徳川を新たに称した。これによって家康は自身を松平一族の中で別格の存在として位置付けた。尚、本当に新田氏の流れをひくのかは判然としておらず、仮冒という見方も強い(この時代の新興の大名ではよくあったことである)。
江戸時代には徳川家康の子孫でも、宗家以外に御三家(尾張家・紀伊家・水戸家)、御両典(甲府・館林)、御三卿(一橋家・田安家・清水家)のみが名乗ることができた。ただし多くの場合、徳川一門といえば徳川家康の子孫で徳川を名乗らなかった結城(越前)松平氏・保科(会津)松平氏・越智松平氏・御連枝(御三家の分家)を含む。他に、家康の養子となった外孫を家祖とする奥平松平家や、家康の異父弟を家祖とする久松松平氏の中でも田安家から養子を取った2家も一門扱いされることがある。
江戸幕府は徳川家に征夷大将軍にして武家の棟梁としての正統性を持たせるために、遠祖であると称した新田義貞ら新田氏の再評価を奨励した。新田氏は室町将軍家の足利氏に劣らず源氏の嫡流であり、それ故のその子孫たる徳川家も源氏の嫡流にして源頼朝に倣って武家の棟梁たりうるとしたのである。江戸時代には水戸家の徳川光圀を始めとして歴史研究がすすめられたが、新田義貞を嫡流とする立場から自然と南北朝時代を南朝正統として描くことになった。これが皮肉にも幕末の尊王討幕運動に繋がっていく(「征夷大将軍の近世的展開へ」『征夷大将軍研究の最前線』,2018)。
現在も名字として徳川姓は存在するが、徳川というとだいたい将軍家を連想しやすい。
歴代将軍
- 徳川家康(1542年~1616年)
- 徳川秀忠(1579年~1632年)家康の三男
- 徳川家光(1604年~1651年)秀忠の嫡男(次男)
- 徳川家綱(1641年~1680年)家光の長男
- 徳川綱吉(1646年~1709年)家光の四男
- 徳川家宣(1662年~1712年)家光の三男・綱重の長男、甲府徳川家出身。
- 徳川家継(1709年~1716年)家宣の四男
- 徳川吉宗(1684年~1751年)家康の十男・頼宣の孫、紀州徳川家出身。
- 徳川家重(1711年~1761年)吉宗の長男
- 徳川家治(1737年~1786年)家重の長男
- 徳川家斉(1773年~1841年)吉宗の四男・宗尹の孫、一橋徳川家出身。
- 徳川家慶(1793年~1853年)家斉の次男
- 徳川家定(1824年~1858年)家慶の四男
- 徳川家茂(1846年~1866年)家斉の七男・斉順の次男、紀州徳川家出身。
- 徳川慶喜(1837年~1913年)家康の十一男・頼房の子孫、水戸徳川家→一橋徳川家出身。
明治以降の当主
- 徳川家達(1863年~1940年)家斉の弟・田安斉匡の孫、田安徳川家出身。
- 徳川家正(1884年~1963年)家達の長男。
- 徳川恒孝(1940年~)松平容保の孫・一郎と家正の長女・松平豊子の次男。
- 徳川家広(1965年~)恒孝の長男。2023年1月1日、恒孝から徳川宗家を継承した。
徳川一門の著名人
※宗家のみ
松平信康…家康の長男
加納御前…家康の長女
松平忠吉…家康の四男
武田信吉…家康の五男
松平忠輝…家康の六男
千姫…秀忠の長女
徳川忠長…秀忠の三男
徳川綱重…家光の三男で家宣の父
徳川斉順…家斉の七男で家茂の父
主な一族
家康の九男・義直を祖とする尾張家、十男・頼宣を祖とする紀州家、十一男・頼房を祖とする水戸家を指す。
明治維新後三家とも侯爵に叙されたが、1929(昭和4)年に「大日本史」編纂の功により、水戸家当主・圀順が公爵に陞爵された。
吉宗の三男・宗武を祖とする田安家、四男・宗尹を祖とする一橋家、家重の次男・重好を祖とする清水家を指す。
明治維新後三家とも伯爵に叙されたが、1899(明治32)年に清水家当主・篤守が財政問題から爵位を返上。その子・好敏が1928(昭和3)年に男爵に叙され復活した。
家康の次男・秀康を祖とする家。
明治維新後、宗家と分家のうち2家が伯爵、5家が子爵となったが、1888(明治21)年に宗家当主・茂昭が父で先代当主・春嶽の功により侯爵に陞爵された。また1888(明治21)年に分家の津山家当主・斉民の八男・斉が男爵に、1906(明治39)年に茂昭の弟・慶民が子爵に叙された。
秀忠の四男・正之を祖とする家。
戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟軍の主力となったため、1868(明治元)年改易となり、翌69(明治2)年に陸奥斗南(青森県むつ市)3万石を与えられ復活した。
明治維新後、子爵に叙された。
綱重の次男・清武を祖とする家。
明治維新後、子爵に叙された。
1902(明治35)年に、慶喜が公爵に叙された際に新たに興した家。また1912(大正3)年に九男・誠が男爵に叙されて分家を興した。
5代当主・慶朝が2017(平成29年)に亡くなった後は、遺言により姪の山岸美喜が継いだが、女史は自分の代での絶家を表明している。
1884(明治17)年に、慶喜の四男・厚が「徳川宗家の分家」として男爵に叙された際に興した家。
フィクションでは
取り扱う時代背景は、圧倒的に江戸時代である事が多いので時代劇ではお馴染み。
主人公設定として「徳川家由来の~」もあれば、「将軍の縁戚」、ひいては「将軍自身」が主人公なる事もしばしばである。
ただその分書き手によってキャラ設定がブレる。
基本的には人格者たる将軍。なのだが、老中(現在でいう国務大臣)や奉行(官僚)などの言葉を鵜呑みにする無能だったり、事なかれ主義のヘタレだったり、お上至上主義の暴君だったりと、作品によって印象がだいぶ異なる。
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外部リンク
公益財団法人徳川記念財団…名誉理事長の恒孝(つねなり)氏、現理事長の家広(いえひろ)氏はそれぞれ徳川宗家の18代・19代目にあたる。