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脚本の被害者の編集履歴

2020-10-25 19:57:33 バージョン

脚本の被害者

きゃくほんのひがいしゃ

脚本の被害者とは、図らずも(あるいは意図的に)制作者の手によって不遇を被ってしまったキャラクターや存在の事である。

概要

死亡退場に至った場合は「脚本の犠牲者」とも呼ばれる。


脚本・展開・演出の都合で「キャラクター達が以前の話がなかったかのような言動を取る」「前の話と矛盾した行動を取った為に無能のような事になった」「キャラ設定と一致しない行動」「高いポテンシャルを持っていたにもかかわらず不遇な扱い」などで消費者の望む展開にならなかった、キャラクターが不遇を被ったなどのケースで、このような呼ばれ方をされる事がある。


例えば…

  • 制作スタッフが「このキャラクター(声優)が好き」と公言しており、それらがやたらと優遇され活躍し、結果別のキャラクターが食われる事になった(制作スタッフの人格面・素行面で問題があるとさらに批判されやすくなる傾向にある)
  • キャラクターが不自然に無能かませ犬、悪辣なキャラを演じさせられた
  • 設定や話だけ盛られていて作中においては全く強さを発揮する場面がなく、説得力が皆無
  • 前の話で「慢心は禁物」と言ったキャラクターが、言ったそばから慢心して大ピンチ
  • まるであらかじめ仕組まれたかの如く、流れるように死亡フラグを立ててキャラクターが死亡してしまった。あるいは、その死亡シーンに至るまでの描写が突っ込み所満載すぎて消費者からの感情移入が得られなかった(結果作品の本義は無視され「キャラの死亡」そのものが芸や素材としてネタにされてしまうケースもある。実例としては止まるんじゃねぇぞ…敗北者など)
  • 原作付きの作品の場合、キャラクターの行動および言動が原作とは少しあるいはだいぶ異なったものして描かれた結果、原作本来でのイメージが損なわれた

といった事例が挙げられる。


ただし、最初からそういうポジションとして設計され描写に唐突感のないキャラや、ルイージのように不遇だがファンの評価を下げる様な印象は持たれないキャラは含まれない傾向にある。


この場合のキャラクターは「登場人物」とは限らず、メカや組織、果ては演じていた俳優や声優なども含まれる場合がある。

個々人の主観による場合もある為、具体的なキャラ例は記載しないものとする。


また、キャラクターの行動について純粋に飽くまでそのキャラクターの行動と取るか、脚本のせいで設定にそぐわない行動をやらされているので好きでやっているわけではないと擁護するかで水掛け論となる場合もある。


原因

このような事になってしまう原因は様々である。

  • 制作者の趣味嗜好

一番槍玉に挙げられやすいケース。

制作側が特定のキャラクターを露骨に贔屓したなど、制作者の好き嫌いに引っ張られてシナリオが組まれた場合が該当する。


  • 描写に対する消費者の趣味嗜好の不一致

上記の逆パターン。(特に消費者が気に入っていた)キャラクターの描写が、消費者に生理的な嫌悪感を催されてしまい、不評を買ってしまったケースが該当する。

そのような描写を描かれたキャラクターは『被害者』にされ、逆に『描くように踏み切った』演出や脚本家が槍玉に挙げられてしまう。


  • 尺の不足、予算の不足、制作スケジュールのひっ迫

作品の打ち切りの決定や制作会社の倒産、あるいは脚本家の都合でシナリオの校正の時間が得られなかったなどが理由でシナリオが駆け足になったり、展開が強引になったり、伏線が不十分になったりして、キャラクターの出番が極端に減ったり描写に矛盾が生じたりして割を食うのがこのケースである。


  • 不自然なシチュエーション

例えば敵から攻撃されるシーンで明らかに警戒しておらず、無防備な状態だったにもかかわらず「奇襲だ」と叫ぶ等、外野(=視聴者・読者・観覧者などの消費者)から見ればその程度は予期・想定できたであろう展開になったケースや、超展開に対して味方の理解が早すぎる(=神の視点にいる消費者の理解が追い付いていない)等、ご都合主義が明白なケース。後者の場合『被害者』は敵側のキャラクターである。


この場合「キャラクターの無能化」「結果ありきの展開(ご都合主義)」と捉えられ、批判されやすくなる。

また、考えればわかる事に称賛していたり、客観的に見て褒める所がないようなキャラを褒めていたりするような場合は「洗脳」と呼ばれるなど、これもまた「(消費者から見て)褒める所がないキャラを無理矢理フォローさせられていて(キャラクターが)可哀想」といった批判の対象になりやすい。


作中の描写だけでは意図が描き切れなかったか、そもそも描くつもりがなかった為に消費者からの反感を買ってしまったケース。

こうなってしまった際、展開が終了した後に批判に対して制作者が反論したり、フォローした場合も「なら最初から入れられるはずだよなぁ?」「嘘つけ何も考えてなくて適当に言い逃れ考えただけだ」といった批判の対象になりやすい。


どちらに肩入れするにせよ、結果論で何だって言えるからである。


連載や放映の途中で発生した大災害や経済恐慌、あるいは不振によるテコ入れによって作品の方向性自体が変わってしまい、キャラクターの行動が無駄になったり元々なかったことになったりして、キャラクターの存在意義や立場が危ぶまれてしまったり、早々に退場させられてしまったりしたケース。


このような実例としてポケモンBWにおけるロケット団VSプラズマ団!の放映中止によるキャラ設定・ストーリーの大幅な設定変更及びそれによるある重要キャラクターの出番の抹消や矛盾の発生(原因:東日本大震災)、ウルトラマンレオにおけるシルバーブルーメによるレギュラー陣大量殉職(原因:オイルショック)などが挙げられる。


ただ、やむを得ない事情があれば『被害者』呼ばわりされる事は少ない。問題になるケースはむしろ、そのような事情がない時である。


アンチによる影響

そしてこういった事例がファンアンチ化、ファンコミュニティのアンチスレ化、贔屓された側がメアリー・スー呼ばわりされてヘイトを買う等のキャラクターへの風評被害といった深刻な作品評価の低下を招いてしまう事となる。


逆に制作者は「キャラクターを傷つけ苦しめた戦犯加害者」として槍玉に挙げられ、当該作品がメディア展開を終了した後も「アイツが作品を駄目にした」等と恨み節を吐かれ続け、最悪の場合は業界から一線を引いた後にも、挙句の果てには制作者の死後すらも恨まれ続け、文字通り「死体蹴り」をされ続ける事となる


そこから別スタッフによるリブートリメイクではない)と設定の一掃を望むケースまで存在する。

これもまた、根底にあるのはキャラクターへの(過剰とも言える)愛情である事が大半である


そして、実際にリブート作品や続編・クロスオーバーが作られて消費者が不満に思っていた部分が削除・修正されたり、ifルートによって不満に思われた展開を回避できたりするようになると、それを「本来あるべきだった展開」「もうこれが公式でいいよ」「顧客が本当に必要だったもの」として評価し、原作展開や制作者の力量を蔑む為の叩き棒にしてしまう。


これは「この展開になったらよかった」「もしここで選択を誤っていなかったら」という「考え得るもう1つの未来」という考え方ではなく「最初からこれが公式であればよかった」という解釈であり、文面は同じだが根本から思想は異なる

作者に汚された原作黒歴史ifこそがファンが望んでいた正史である」といった主張がなされる事も決してないわけではない。


酷いものになると、ここから同じ脚本家が担当した他作品とそのキャラクターにまで風評被害が飛び火してしまう事もある。

この場合も哀れみられるのはあくまで「とばっちりを食らわされてしまった(他作品の)キャラクター」であって、名誉毀損ものの執拗かつ悪辣な誹謗中傷を受け続ける監督・演出・脚本家などに対してではない


しかし…

そもそも、フィクションにおけるキャラクターは『制作スタッフが思い描いた脚本やプロットの筋書きに基づいて動かしていく』のが基本であり、その意味では脚本、ひいては制作スタッフの人格に影響を受けていないキャラクターなど、フィクションにはまず存在しないと言ってもよい。


というかこの手の問題で脚本家一人をやり玉に上げる者は多いが、創作物というのはプロデューサー、監督、そして演出家といった他の多くのスタッフを擁して作られるものであり、キャラクターの扱いや物語の展開に関して一重に脚本家の一存で決まるものとは限らない。


もともとそうなる予定だったものを脚本家はそれに合わせて書き起こしただけだったり、あるいは監督やプロデューサーなどそれ以上の立場の人間の意向により途中で変更しただけだったりと、可能性だけならいくらでも考えられるため、その辺の事情も考慮しない内に全てを脚本家の所為にするのは番組作りにおいて何もわかっていないと言わざるを得ない。


制作スタッフの手でキャラクターが不遇・不幸な扱いをされてしまう事に批判・非難する向きは当然あるわけだが、そもそも論として人の主観を混ぜる事なく作られたフィクションの方が希少(もし可能だとしたら、それはもはやフィクションではなく「二次元に作られたパラレルワールド」と呼ぶべきものだろう)であり、フィクションにおいてキャラクター達が『勝手に』不幸になるわけがないのである


「制作スタッフのせいで不幸になった」というのはある意味当然の帰結であり、ごく当然の指摘をして一体何の得になる?という話になってしまう。

例えばキャラクターの死亡に対して「脚本や監督が殺した」と批判する行為は、その世界に生きるキャラクターへの感情移入から来る敵への怒りではなく、観客である自分達の「満足・納得できなかった」という目線からのスタッフへの怒りであるのだが、何故だか「このキャラクターが死んでしまう筋書きを書いたアイツが殺したんだ」と、前者と混同して語られる事が多い。


冷静に考えればわかる事だが、「死亡させる」と決められる事なく自ら死を選ぶキャラクターがいるわけなどない。身も蓋もない事を言えば「作者が死亡シーンを描いたから」「『現実にいる誰か』が死亡させると決めた」から死んでしまったのである

「自分達はキャラクターの死に納得できない」というのが正確だろう。


中には例え「“キャラの死”自体は許容している」と言っていたとしても、その過程および理由が納得できないからやっぱりダメという主張を振りかざす者も少なくはない。


しかも、この理屈自体が「制作スタッフのせいで俺達のキャラクターはうまく動けなかった」と物語の外から非難しているものである。まるで子供の参観日やアイドルのライブを制作スタッフに邪魔されたかのような言い草であるが、そもそも、制作スタッフは全知全能の神ではなく、完全中立の存在でもない、批判している自分達と同じ「人間」であることを忘れてはならない。


人間である以上、前の話の流れを「忘れてしまう」というミスや複数の脚本家が参加している場合におけるそれぞれの解釈違いというのも当然あるだろう(無論、作り手である以上は「ない」のが望ましいわけだが)し、贔屓や愛着が生まれても別に不思議ではないのである。


もし制作が「特定キャラクターを贔屓した結果、消費者が望むものが生まれなかった」事ではなく「消費者の望むものが生まれなかったのは、制作が特定キャラクターを贔屓していたせいだ」と「制作が特定キャラクターを贔屓していた」事自体を嫌悪・問題視するのであれば、作品というよりは制作陣の感性そのものに対する批判であり、それを避ける為には最早感情・感性を持つ「人間」に作らせない以外に根本的な解決方法は無いだろう。


結局は、戦犯探しをするのも制作者やキャラクターに執拗な誹謗中傷を加えるのも、根元にあるのは「自分達が満足しなかった(できなかった)」でしかないのである。


一応「キャラクター制作に制作の主観や人格が絡む」問題への対処法はあるにはあり、AIによってキャラクター制作を行えば、自分の理想ではなくAIによってキャラクターが形作られる為この問題はある程度は解決できる(実例としてはアイドルマスターミリオンライブが挙げられる)。

とはいえ、やはり最初は人の手が必要であり、完全に解決できるものでもない。


ついでに言うとそういう類の人間はそれでも自分の期待にそぐわない展開や流れになると「このやり方を選んだ奴が悪い」だの「このAIのプログラムを組んだ奴は無能」だのと結局はまた違う形で“責任者”を探すだけかもしれないが。


それでも脚本やスタッフの人格を批判したいというのであれば、この点を肝に銘じる必要があるだろう。


また、キャラクターへの愛をダシにしたスタッフへの誹謗中傷脅迫犯罪であり、自身が処罰を受ける可能性がある行為であるという事も忘れてはならない。


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