概要
どう考えでもそういう風にならないのに、何故かそうなってしまった状態。ストーリーの流れ上の整合性無視でインパクトだけを重視してでこじつけられたため、視聴者は混乱状態に陥ること必至。『そのりくつはおかしい』という言葉も、この展開では野暮というものである・・・。
どうしてこうなった
こうした展開は昔からよくあり、古くは古代ギリシャ演劇の『機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)』による勧善懲悪劇や、宗教説話における奇跡など、超常的な存在の物語への介入や神の威光を伝道するための手法として用いられた。
昨今のものは昭和期のギャグ漫画におけるナンセンスギャグの応用として活用されるものが多く、あくまで笑いを誘うシチュエーション作りのために「起承転結」の『転』で用いられることがほとんどである。
また昭和のテレビアニメ興隆期においては、30分(より正確には20分強)の枠に一つのエピソードを詰め込むのが定石だったため、枠いっぱいでストーリーを起承転結させるために、整合性が取れていようといまいとノリと勢いでまとめてしまうことも多かった。
特に日常を舞台にしたコメディー作品は一話完結のオムニバス形式ゆえに、前後のエピソードとの関連が薄く、時系列そのものが食い違っても半ば不問に帰すのが暗黙の了解でもあった。次の回にはなかったことにされるのも珍しくない。特撮では実写と予算の制約でアニメほど自由に作劇ができないため、今も昔も超展開が多く、なんというかライブ感が豊富である。
スポ根アニメはある意味で超展開の見本市といえる側面もあり、『巨人の星』を始めとした梶原一騎作品では、常識外れで死に物狂いな特訓から必殺技を編み出し、不可解な原理をもったその技をやはり無茶苦茶な特訓で超克するのがお約束だった。後続のスポ根ものも、大なり小なりこうした先例に倣っているところがあり、21世紀に入ってからは『テニスの王子様』がこの系譜の先端を行っている。
男子向けの漫画(特に玩具やカードゲームの販促の意図が強いもの)も、設定からしてかなりカッ飛んだものが多い。最初は地方大会でライバルたちと鎬を削るくらいだったのが、いつの間にやら競技に使われる遊具やカードで世界征服を始める悪の組織との死闘へと変わるのは、もはやお約束の一環になっている。
女子向けの場合、そもそも「シンデレラストーリー」を展開として盛り込むことが定番化しているので、ある日突然に妖精が現れて魔法少女になった程度は、伝統文化として定着して超展開とは看做されにくい風潮となっている。むしろ唐突に男子向けレベルのハードなアクションが挟まる方が、超展開認定されることがある。
こうした手法は“視聴者の成長”とともに「子供騙し」と論じられるようになり、作風として許容されない限りは基本的には批判の対象として厳しい目線で見られるようになっている。ただし逆を言えば、視聴者を納得させるられる理由付けがあるなら受け容れられるという面もあり、事前に伏線を張り巡らせたり、後続のエピソードでしっかりと理由付けがなされれば、「超展開も必要な展開の一部」として物語を盛り上げるスパイスとなってくれる。
だが
ときとして漫画やアニメの打ち切りやスタッフのやらかしでトンデモない方向に物語が進むことがまま発生し、そうした意味で読者や視聴者を混乱に陥れるような事態が起こる。おおよそ大人の事情が絡んでいるが、作り手の突飛な発想が人類には早すぎたというケースも。
一例(?)
推理小説において「事前に読者に渡された情報のみで犯人を特定できる」物を「本格派」と呼ぶ。
逆に事前に渡された情報からでは推理しようの無い犯人であれば超展開になるだろう(例えば『EVE burst error』)。
超展開に定評のある脚本家・演出家たち
右に挙げたタグは超展開の例。
- 井上敏樹⇒草加雅人 手塚海之(RT龍騎版)
- 浦沢義雄⇒芋長 ジェラシット
- 高橋邦子⇒川越ではよくあること
- 中島丈博⇒たわしコロッケ
- 日野晃博
- 山川純一
- 武藤将吾
- 森脇真琴
- FROGMAN
- 大和屋暁⇒なぜか飛んできたキツツキが激突!
- 吉田伸⇒ドーマ編 遊戯王GX(宇宙は一枚のカードから始まった) プラシド究極体 どういう…ことだ…
- ワタナベシンイチ
- ゆでたまご⇒ゆで理論 だってゆでだから・・・
- 紅蓮ナオミ⇒ポロリ落とし
- 猿渡哲也⇒猿展開