文字通りの意味
また、物事のリズムや連続性、一体感といった使われ方をするケースも。
創作用語
※ソースが不足しています。情報を所持している人追記お願いします。
転じて、ドラマやアニメ放送、小説やマンガ連載、SMSや動画配信などにおいて、
といったものに漠然と”ライブ感”という用語が用いられる。
ただし、現段階においてこの用語の定義はかなり曖昧なものであり、クリエーターや批評者がなにをもって”ライブ感”とするかは非常に錯綜としている。
そもそも概念の定義すら確定していないのが実態で。現段階では半ばマジックワードとしてこの言葉だけが独り歩きし続けている。
一定の読者や視聴者からの意見をまとめると、細かなシナリオの設定や辻褄よりも、格好いいオシャレな演出、または今後の展開への興味を掻き立てる事を優先した内容とされている模様。
まさしくライブ中のごとく「その時の」顧客を大いに盛り上げられる一方、後から冷静になって見返すと、クリエイターによっては描写の必要性や最終的な纏め方が粗雑に終わっていた穴だらけの作品になっている事もしばしば。
破綻度合いでは作品全体のストーリーや設定・考証といった要素が一気に有名無実となる原因にもなり得るため、「ノリと勢い任せのご都合主義・超展開」といったマイナスイメージで再評価されることも少なくなく、良い意味でも悪い意味でも物議を醸す要素である。
ライブ感の歴史
戦前において、今日的なライブ感でならしていた作家のひとりが江戸川乱歩であろう。
というのもこの人物、日本におけるミステリー作品の開祖として知られているものの、「いいぞもっとやれ!」といった読者のからのレスポンスや自身でも筆がノッてくるなどするとかなり常軌を逸した描写を次々と記していくことで有名であった。
かの明智小五郎シリーズもこれの影響で『人間豹』などのように獣姦含むエログロナンセンス&伏線投げっぱなしエンドみたいなとてつもない内容になっている話しも結構ある。
結果として「推理小説というジャンルが一時期にマジキチ路線という印象を持たれた原因の一つは乱歩のせい」といった見方すらある。
……まあ、乱歩先生は本格よりは変格に傾倒していた時期もあったから、多少はね?
加えて、事実上の見切り発車で作品を受注してしまった末に結局ストーリーがまとまらず迷走状態に陥ったケースも結構あり、昭和8年発表の『悪霊』に至っては「よく考えないまま書き出したら訳が分からなくなって、やる気が無くなっちゃったから休みます(意訳)」とわずか数カ月で事実上の断筆宣言をする羽目になっている。
ただし、こうしたように潔く「書けません!」と声明を出していたことは、近年問題視されているクリエーターの死亡や公式アナウンス途絶といった突然の絶筆・エタりと比べまだ理想的な幕引きと引き合いに出されるケースが多い。
漫画におけるライブ感で有名なのはドカベンの対弁慶高校戦である。打ち合わせでは一番バッター山田太郎の第一打席を三振にする予定であったが、作者水島新司いわくとても良いホームランシーンが描けたため三振をホームランに変更し、試合経過がめちゃくちゃになったという逸話がある。
このように漫画家の中には作画を中心と考えるため、良い作画がかけた場合話の流れを変更する場合もある。
現在でも客の目を引くライブ感優先で「衝撃的な展開」「ネタになりそうな展開」を多く盛り込んだものの、後から全体を見返すと、話そのものの出来は対して良くないという評価に終わった作品は少なくない。
むしろ近年は増えてきた節もあり、視聴者からクリエイターに至るまで
- 何度でも見返したい出来の良いストーリー・名作を求める「反ライブ感派」
- 出来などどうでも良く、バズって盛り上がり感情を発散したい「ライブ感派」
の二種に、コンテンツという概念自体の在り方を巡り、好き嫌いの議論が各地で起きるようになって来ている(料理で言うなら、素材の味を活かしたい派と、刺激的な味ばかり求める派といったところか)。
言葉の経緯
アニメ業界においては、80年代には既にライブ感を基調としたぶっ飛んだ展開を皮肉る「脱力させられたら富田脚本」なる名言(?)が存在している。
言葉としては白倉伸一郎曰く業界用語として存在していたというが詳細は不明。この用語がオタクに本格的に流通しはじめたのは、仮面ライダー平成一期がきっかけ。
『仮面ライダーアギト』以降、平成ライダーズは設定に囚われず連続ドラマ的で実験的な作品が複数続いた。これに絶賛する声が続々とあがった一方で、従来の作風からかけ離れた部分、つまり昭和ライダー的路線や平成第1作『仮面ライダークウガ』の設定重視路線から離れた、衝撃・話題性重視で臨機応変に設定を変えていく現在進行系な展開がライダーの作風となった。まさに「カイガン!平成ライダー!新たな個性!これが平成!」を地で行く作品群である。
プロデューサーの白倉伸一郎は2002年ぐらいあたりから、これを”ライブ感”と表現した。(「ライブ感とは何なのか?」については、長くなるから、リンク1・リンク2を見てくれ。リンクは二種類あるから、どちらも見逃さないでほしい)
概ね好評であった初期白倉ライダーだが、当時より「伏線が回収されていない、分かりにくい」という声も多く(もっともこの頃は「井上ワープ」のように井上敏樹のせいにされることも多かった)、『仮面ライダー響鬼』後半のプロデューサー交代騒動、白倉路線復活により前期響鬼の支持者を中心に反ライブ感派が発生。視聴者側も徐々にこの言葉を用いた批評を行うケースが増えだした(当時の2chスレ)。
その後もどんどんとライブ感は増してゆき、ライブ感に振り切り過ぎた『仮面ライダーディケイド』最終回の炎上騒動と、その末の開き直りを経て現在に至る。
白倉P戦隊復帰でとうとうスーパー戦隊シリーズにも波及した。またかつて関わった五星戦隊ダイレンジャーや超光戦士シャンゼリオンも非常にライブ感溢れる作品であり(さらに後者は話数短縮)、ライブ感のプロトタイプとも言える。
別例として『機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズ』は制作側がライブ感を重視した作品であることを公言している。いわゆる生放送感を狙った試みであった模様。
この結果生まれたのがあの名(迷?)シーンである。
この作品の評価をめぐっては、当時のpixiv百科事典上でも『機動戦士ガンダムSEED』に匹敵する大激論が引き起こされた。
関連タグ
考えるな、感じろ…現状ではむしろこの境地である方が混乱が少ないかも知れない。
白倉伸一郎…「ライブ感とは生放送感のことです」と言いつつ本項「創作用語」としても用いる人物。