その直線で、過去も未来も消え去った。
ただ、「今」と「今」がぶつかり合う、伝説のデッドヒート。
戯れにもみえた。死闘にもみえた。
その勝者の名は、テンポイント。
競馬のすべてがここにある。「有馬記念」
※以下、文中では2000年以前の旧馬齢表記で記載する。
生涯
生い立ち
父はコントライト、母は1966年に桜花賞を優勝したワカクモ。
両親を同じくする全弟にキングスポイントがいる。
ワカクモの母クモワカは、重賞を勝てなかったものの、32戦11勝の成績を残していた。
しかし、伝染病に罹ったと診断され一時は殺処分と下されたが、その後裁判で陰性と認められた経緯を持つ。
祖母のその経緯からテンポイントは「亡霊の孫」と呼ばれたことがある。
3歳(1975年)
1975年8月17日に函館競馬場の新馬戦(TTGで一番最初にデビュー)を快勝し、続くもみじ賞も勝利。
3戦目は関西の3歳馬の頂点を決める阪神3歳ステークス(現・阪神ジュベナイルフィリーズ【GⅠ】。1990年までは牡馬も出られた)。
ここでも2着のゴールデンタテヤマを7馬身突き放す快勝で、最優秀3歳牡馬に選ばれた。
実況の杉本清は、「見てくれこの脚!見てくれこの脚!これが関西の期待テンポイントだ!テンポイントだ!強いぞ強いぞ!」と叫んだ。
4歳(1976年)
当時は関東馬が強く、気圧配置になぞらえ「東高西低」と呼ばれていた。
そんな中でテンポイントは、関西の競馬ファンの期待を一身に背負い、クラシックシーズンに臨んだ。
4歳初戦の東京4歳ステークス(現・共同通信杯【GⅢ】)を優勝し4連勝。なお、2着はダービー馬クライムカイザーだった。
続くスプリングステークス(現【GⅡ】)も勝利し、デビューから無敗の5連勝。
そしてクラシック一冠目の皐月賞。ここで、最大のライバルとなるトウショウボーイと初めて対決する。
トウショウボーイは4歳になってからデビューしたが、こちらも無敗で皐月賞に臨んだこともあり、テンポイントが1番人気、トウショウボーイが2番人気だった。
しかし結果はトウショウボーイに5馬身差を付けられて、初の敗北を喫した。
しかし、主戦騎手の鹿戸が怪我により騎乗できなかったため、この時だけ武邦彦(武豊の父)が騎乗した。
さらにテンポイント自身も体調が思わしくなく、2番人気に推されるも結果はまさかの7着。これが最後のレースを除いて生涯最低着順だった。
そして菊花賞は京都競馬場で開催ということもあり、皐月賞馬トウショウボーイ、ダービー馬クライムカイザーに次ぐ3番人気に推された。
レースはトウショウボーイ(3着)に初めて先着したが、12番人気の伏兵馬に内から差されてまたしても2着。結局クラシックは無冠に終わった。
その伏兵馬こそグリーングラスで、「TTG」を形成する3頭がこれで揃い
踏みとなる。
ちなみに杉本清は「それいけテンポイント!鞭など要らぬ、押せ!!」と叫んでいた。
テンポイントは有馬記念にも出走するが、またしてもトウショウボーイの後塵を押す2着。
結局4歳シーズンは八大競走を勝つことのないまま終わってしまい、最優秀4歳牡馬および年度代表馬もトウショウボーイが手にした。
5歳(1977年)
年が明け古馬となったテンポイントは、京都記念(現【GⅡ】)と鳴尾記念(現【GⅢ】)を連勝し、天皇賞(春)に臨む。
トウショウボーイが不在だったとはいえ、グリーングラスとクライムカイザーを破り、遂に八大競走初勝利を手にした。
続いては宝塚記念(現【GⅠ】)。
この年の宝塚記念はTTGを含めてたった6頭だけだったが、TTGの他にもクライムカイザー、アイフル('76年天皇賞秋優勝馬)、ホクトボーイ(この時点では未勝利だったが、同年の天皇賞秋に優勝)と6頭全員が八大競走優勝馬であり、「伝説の宝塚記念」と呼ばれる。
1番人気に推されたテンポイントだったが、またまたトウショウボーイに敗れて2着。しかもトウショウボーイは病み上がりのため、この宝塚記念がこの年の初戦であった。
菊花賞で一度だけ先着しているとはいえ、「テンポイントはトウショウボーイに勝てない」という声まで上がっていた。
秋初戦は前年3着に敗れた京都大賞典。
ここではなんと63kgという重たい斤量を背負いながらも2着に8馬身差を付ける勝利。
有馬記念でトウショウボーイを倒すことを目標とし、もう1戦使おうとしたが、当時天皇賞は一度勝つと2度と出られない勝ち抜け制度が(1980年まで)敷かれていたため天皇賞秋には出られず、次はやむなくオープン戦だったがここも逃げ切り勝ちを収め、有馬記念へ挑む。
そして迎えた第22回有馬記念。
トウショウボーイはこのレースを最後に引退することを表明したため、是が非でも勝たなくてはならなかった。
レースはスタートからトウショウボーイとテンポイントの2頭がハナを奪う展開。そして最後の直線でテンポイントが先頭に立つとそのままトウショウボーイを抑えて優勝。
3着にグリーングラスが入り、TTGが3頭揃った最後の競走も3頭が上位を独占した。
八大競走で初めてトウショウボーイに勝ったテンポイントは、この年の年度代表馬を満票で受賞した。(満票での年度代表馬受賞はメイヂヒカリ以来史上2頭目。以降はシンボリルドルフ、テイエムオペラオー、アーモンドアイ。)
6歳(1978年)
年が明け、テンポイント陣営は2月から海外遠征を行うことを発表した。
その前に壮行レースとして選ばれたのが、日経新春杯(現【GⅡ】)だった。
しかし、斤量が66.5kgという現在では考えられない重さであった。さらに当日は雪だったこともあり、競馬ファンや関係者は一抹の不安を抱えていた。
そしてその不安が的中することとなる。そのときを杉本はこう実況している。
「あっ…と!テンポイントおかしい、テンポイントおかしい、故障か、故障か…ああ…テンポイントは競走を中止、テンポイントは競走を中止した感じ、これはえらいこと、えらいことになりました!えらいことです!」
第4コーナーに差し掛かった所でテンポイントは突如後退。競走中止。右後脚の骨折、それも、骨が皮膚を突き破っている重度のものだった。JRA関係者は予後不良の診断を下したが、全国の競馬ファンから「テンポイントを殺さないでくれ!」という署名が数多く届いたこともあり、空前絶後の医師団結成の上で手術に踏み切ることとなった。
手術こそ行われたが、患部のギプスがうまく合わされなかったことも災いしておよそ2か月後の同年3月5日に蹄葉炎により衰弱死した。
500kgあった体重も300kg程まで痩せ衰え、患部は腐っていたこともあり、馬主の高田久成は「結果的にテンポイントを苦しめてしまった。」と悔やんだ。
死後
テンポイントの葬儀は盛大に行われ、その後遺体は生まれ故郷・北海道安平町の吉田牧場に葬られた。
このテンポイントの悲劇を機に、JRAは斤量の再検討が行われ、いわゆるGⅠホースに負担がかかりづらい別定・定量戦が多く設けられた。
死の12年後の1990年には顕彰馬にも選出された。(この年に顕彰馬に選ばれたのは、自身の前に満票で年度代表馬を受賞したメイヂヒカリと、直接対決がなかった1歳下のマルゼンスキーだった。)
また、この馬の治療中に得たデータなどが後にウマ目の治療技術などの向上に貢献することにもなった。
2000年に投票された「20世紀の名馬100」ではTTGの中で最も高い第14位にランクインしている。