77年、有馬記念。
その直線で、過去も未来も消え去った。
ただ、今と今のぶつかり合う、伝説のデッドヒート。
戯れにも見えた、死闘にも見えた。
その勝者の名はテンポイント
競馬の全てが、ここにある。
――2012年 JRA CM The WINNER 有馬記念編より
※馬齢は2000年までの旧表記で記載する。
本番までの動き
テンポイントとトウショウボーイ
前年のクラシックで人気を集めたTTことトウショウボーイとテンポイントは、この年も活躍を続けていた。テンポイントは前年こそ無冠に終わったものの、この年は天皇賞(春)優勝を含む6戦5勝2着1回と安定した強さを見せていたが、トウショウボーイとは宝塚記念で2着に敗れるなどトウショウボーイに後塵を拝する結果となっていた。対するトウショウボーイは、八大競走の勝ち鞍こそ無かったものの宝塚記念でテンポイントを破るなどライバルとして当時の競馬人気を引っ張った。
ファン投票で第1位で選出されるテンポイント陣営は京都大賞典勝利で海外遠征を計画するが、ここで思わぬ事態が判明する。なんと、トウショウボーイがこの年の有馬記念で引退するというのである。西低東高の時代に関西のプライドとして活躍していたが、トウショウボーイには先着できていなかった。すなわち、テンポイント陣営にとってこの年の有馬記念は雪辱を晴らす最後の機会となったのである。
対するトウショウボーイはファン投票第2位での選出となった。天皇賞(秋)では7着と大敗したものの、この年の宝塚記念や高松宮杯を制するなど調子は良かった。そしてただの引退レースというだけでなく、69~70年スピードシンボリ以来の連覇がかかっており、トウショウボーイ陣営としても負けられない一戦であった。
その他の馬
後にTTGと呼ばれる3頭の一角グリーングラスは、前年に菊花賞を制しこの年もアメリカJCCや日本経済賞を制するなど調子が良かったが、TTが出走するレースでは勝つ事ができずにいた。何とか有馬記念を制して、存在感を示したいところである。
そしてこの年の有馬記念には、ある馬が出走予定だった。その馬はマルゼンスキーである。持込馬、所謂マル外であったマルゼンスキーはクラシックへの出走こそ叶わなかったものの、日本短波賞での圧倒的なパフォーマンスを含む8戦8勝で、有馬記念にもファン投票第4位で選出されていた。翌年の海外遠征も見据えての出走となるはずだったが、レース直前の追い切りで屈腱炎が再発、大事を取って回避する事となった。
プレストウコウは当年の菊花賞馬であったが、日本短波賞での敗戦やマルゼンスキー不在のクラシックを勝ったために(これは当年の皐月賞馬ハードバージやダービー馬ラッキールーラも同様である)評価があまり上がらなかった。また菊花賞で負かした馬が、よりにもよって名牝トウメイの子テンメイだった事で、当時ヒールとして名をはせたプロレスラー、フレッド・ブラッシーのニックネームと同じ「銀髪鬼(芦毛だから?)」というニックネームがつけられてしまった。ここは何とか勝つか上位に食い込むことで、そんなイメージを払拭したいところであろう。マルゼンスキーが引退したことで、結果的に4歳世代の代表として臨むことになったのである。
出走馬
※太字は八大競走
枠番 | 馬番 | 馬名 | 性齢 | 騎手 | 人気 | 主な勝鞍 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1 | トウショウボーイ | 牡5 | 武邦彦 | 2 | '76皐月賞、'76有馬記念、'77宝塚記念、'76神戸新聞杯、'76京都新聞杯、'77高松宮杯 |
2 | 2 | トウフクセダン | 牡5 | 宮田仁 | 7 | '77東京新聞杯、'77オールカマー、 |
3 | 3 | テンポイント | 牡5 | 鹿戸明 | 1 | '77天皇賞(春)、'75阪神3歳ステークス、'76東京4歳ステークス、'76スプリングステークス、'77京都記念(春)、'77鳴尾記念、'77京都大賞典 |
4 | 4 | シンストーム | 牡7 | 横山富雄 | 6 | ここまで50戦10勝 |
5 | 5 | プレストウコウ | 牡4 | 郷原洋行 | 4 | '77菊花賞、'77NHK杯、'77京都新聞杯 |
6 | 6 | グリーングラス | 牡5 | 島田功 | 3 | '76菊花賞、'77アメリカJCC、'77日本経済賞 |
7 | 7 | スピリットスワプス | 牡5 | 中野栄治 | 8 | '75新潟3歳ステークス、'75府中3歳ステークス、'76きさらぎ賞 |
8 | 8 | メグロモガミ | 牡4 | 東信二 | 5 | ここまで19戦2勝 |
TTGが揃うだけでなくマルゼンスキーも出走予定であったことから、ホクトボーイやカシュウチカラといった有力馬が翌年の東西金杯に回避、またそのマルゼンスキーも前述の通り直前に屈腱炎で引退したことから第10回有馬記念と同じく、わずか8頭立てで行われることになった(最も少なかったのは1971年の6頭立て)。
レース展開
開催日 1977年12月18日(日)
中山 外回り・芝2,500m 馬場状態:良馬場 天候:晴
各馬問題なくゲートから出た。シンストームが位置を下げトウショウボーイが前に出る。それについて行ったのがテンポイントだった。逃げ馬のスピリットスワプスはハナを奪えず3番手になるが、グリーングラスとプレストウコウが並んでかわし3・4番手になる。そのまま一度目の第4コーナーを抜ける。ホームストレッチまでは、馬場の真ん中を先に行ったTT二頭から1~3馬身差で後続が続いていた。
トウショウボーイとテンポイント馬体が合った、馬体が合った、馬体が合いました! 馬体が合った、馬体が合いました!(杉本清)
レースが動き始めたのは、第1コーナーからであった。スピリットスワプスが再び3番手に上がる中、トウショウボーイとテンポイントが徐々にスピードを上げ、後続と差をつけ始めた。TTの競り合いにどの馬も積極的に絡もうとしなかった事で、第2コーナーでは数馬身、バックスストレートでは5馬身差もついていた。
TTがハナを奪い合いながらレースを引っ張る中、3番手グリーングラス以下が第3コーナーで近づいてくる。しかし第3コーナー終わり付近からTTはさらにギアを上げ、グリーングラスらが離されていく。第4コーナーを抜けて後続を突き放した二頭は、最後の直線で壮絶な追い比べを繰り広げる。
これは世紀のレース、世紀の一戦だ!(杉本清)
直線入り口では僅かにトウショウボーイ優位に見えたが、テンポイントが半馬身ほど引き離す。負けじとトウショウボーイが詰め寄ると、テンポイントはまた突き放す。二頭は圧巻のマッチレースを見せていたが、その二頭を外から追いかける黒い影があった。グリーングラスである。このとき杉本清は、「実況しながら内心『またこいつ来たんか』と思った」と当時の心境を述懐している。
外からグリーングラス! 外からグリーングラスが来る! 外からグリーングラスが来た! 外から怖い怖いグリーングラス!(杉本清)
普段は内ラチ沿いでスパートするグリーングラスが、馬場の真ん中ほどを走りトウショウボーイの半馬身差と迫る。トウショウボーイは再び伸びるが、テンポイントが1馬身ほどの差をつけ突き放す。
テンポイント力で、トウショウボーイを、そしてグリーングラスをねじ伏せました!(盛山毅)
中山の直線を! 中山の直線を流星が走りました! テンポイントです!(杉本清)
幾度の敗戦を越え、ついにテンポイントがトウショウボーイを破ったのであった。
結果
着順
※枠番は馬番と同じなので省略
着順 | 馬番 | 馬名 | 人気 | 着差 |
---|---|---|---|---|
1 | 4 | テンポイント | 1 | 2分35秒5 |
2 | 6 | トウショウボーイ | 2 | 3/4馬身 |
3 | 3 | グリーングラス | 3 | 1/2馬身 |
4 | 5 | プレストウコウ | 4 | 6馬身 |
5 | 8 | トウフクセダン | 7 | 3 1/2馬身 |
払い戻し
単勝 | 3 | 200円 |
---|---|---|
複勝 | 3 | 110円 |
複勝 | 1 | 110円 |
複勝 | 6 | 150円 |
枠連 | 3-1 | 240円 |
その他
・TTGが最後に揃ったレースにして3頭が死力を尽くしたこのレースは、時代を越えて高く評価されており、2014年の優駿においても「永遠に語り継ぎたい名勝負」で、2008年天皇賞(秋)や1999年有馬記念を抑え「永遠に語り継ぎたい名勝負」で堂々の一位を飾った。
・3着グリーングラスと4着プレストウコウの着差は6馬身にも及び、いかにTTGの能力がずば抜けていたかが分かるものとなっている。それだけに、マルゼンスキーの出走回避が惜しまれることになった。
・トウショウボーイは予定通り引退し、種牡馬となった。しかしこの当時は外国産種牡馬が持て囃される時代であり、牝馬集めに苦労する事になった。トウショウボーイの種牡馬としての評価が上がるのは、2年目産駒のダイゼンキングが阪神3歳ステークスを制したり、代表的産駒であるミスターシービーが三冠を制してからである。
・テンポイントは無事勝利し、史上二度目となる満票で年度代表馬に選ばれた。海外遠征を目標に現役を続行、遠征前のお披露目・壮行レースとして出走した日本経済新春杯で66.5kgという酷量ともいえる斤量を負う。そしてレースでは快調に先頭を走っていたが、4コーナー左後肢を骨折・競走中止。予後不良の診断が下されるも、ファンからのテンポイントを何とか生かしてほしいとの声から馬主・高田氏と日本中央競馬会は大獣医師団を結成し、懸命な手術によりなんとか一命を取り留めたかに思われたが、手術中のミスからテンポイントの体調を悪化させてしまったことにより日本経済新春杯の43日後の1978年3月5日に死亡した。
・惜しくも勝てなかったグリーングラスは、脚部不安に悩まされながらも翌1978年の第77回天皇賞(春)を勝ち、そして2年後の1979年、ラストランとなった第24回有馬記念を第3コーナーからのロングスパートでの抜け出し・2着メジロファントムを鼻差凌ぐ形で勝利、有終の美を飾った。
・プレストウコウは菊花賞での勝利が評価され、優駿賞最優秀4歳牡馬に選出された。5歳になったプレストウコウは前哨戦のオープン戦1着を経て第77回天皇賞(春)に出走したが、2周目の向正面で鞍ズレが発生して競走中止となり、優勝は上記のグリーングラスであった。秋は前哨戦の毎日王冠を勝利し、第78回天皇賞(秋)に出走、テンメイと半馬身差の2着。続く第23回有馬記念は1番人気となったがカネミノブの12着に敗れた。レース後、球節炎を発症し長期休養に入り、有馬記念出走から9か月後の毎日王冠で4着になったのを最後に引退した。