概要
データ
父はダンシングブレーヴが欧州に残した数少ない産駒で、KG6&QEダイヤモンドSを制した。母は日本在来の血統で、母父父にはブライアンズタイムやクリスエスの父としても知られるロベルトがいる。
現役時代
デビューから重賞初勝利まで
2001年の8月にデビューした彼は初戦を3着、次走を2着と好走するも3戦目の未勝利戦で8着と大きく順位を落とす。しかし、次の未勝利戦でついに初勝利を挙げる。
初勝利を挙げた未勝利戦がダート1200mだったせいだろうか、彼はそこからダートのマイルを走るのだが、6戦して1勝とどうにも振るわない(なお、4・5着が二回、6着が一回)。
重賞初挑戦となったのは、翌2002年の青葉賞だった。結果から言ってしまえばシンボリクリスエスが勝利したこのレース、我らがイングランディーレはというと、前走からいきなり600m距離が伸びて初挑戦となった2400mだった事、芝はまだ2回目だったせいか13着と大敗してしまう。
年内はあと6戦して1勝。そのうち重賞は2回走っているが、ユニコーンステークスは13着と大敗している。しかし、格上挑戦となった年末のステイヤーズステークスでは、ホットシークレットの4着と好走していた。
2003年、4歳になったイングランディーレは、初戦の自己条件は6着とまずまずの着順。次に走ることになったのが、中山競馬場で代替開催された再びの格上挑戦となるダイヤモンドステークス。イングランディーレはこれまでの戦績から8番人気と低評価であった。しかし、斤量が軽かったことも幸いして逃げ切り、重賞初勝利を挙げる。
勝ちはするも……
ダイヤモンドステークスの次に選んだ日経賞も、GII大将バランスオブゲームを抑えて重賞連勝を果たす。
こうなれば、次に走るのはもちろん天皇賞(春)。長距離重賞連勝が評価され、18頭中5番人気に支持された。だがレースでは中団前目で控える、という前走などとは違う慎重なレース運びをした結果、ヒシミラクルの激走を前に9着と敗れてしまった。
この敗戦を受けて、彼は再びダート路線で走るようになる。ブリーダーズゴールドカップと白山大賞典を連勝するものの、JBCクラシックはアドマイヤドンを前に6着、二度目の挑戦となるステイヤーズSもまた4着と勝ちきれない。この年最後のレースは名古屋グランプリだったが、ここも5着に終わった。
5歳になった2004年の初戦はダイオライト記念。不良馬場ながら2着と好走した。
「イングランディーレの一人旅!」
ファンに次もダートを走ると思われていたかは分からないが、陣営は再び春天に挑戦する。
この年に春天には、前年の二冠馬ネオユニヴァースや菊花賞馬ザッツザプレンティ、前年のクラシックや有馬記念で好走していたゼンノロブロイやリンカーンの四歳四強が出走。日経新春杯と京都記念の重賞2連勝を含む5連勝と絶好調のシルクフェイマスや、2年前の菊花賞でヒシミラクルとともに大波乱を巻き起こしたファストタテヤマもいて脇役も揃っていた。
イングランディーレはというと、前年にダイヤモンドSなどを制していたとはいえ、最近はなかなか勝てておらず前走がダートだったせいか、10番人気と低評価だった。
レースが始まると、鞍上横山典弘の積極策でいきなり先頭に踊り出る。1周目のスタンド前の時点で、5~6馬身の差をつけて逃げる。先に挙げた馬たちは差し馬・追い込み馬ばかりであり、お互いにけん制しあった結果、イングランディーレとの差が広がって縦長になっていく。
向正面でも15~20馬身差をつける大逃げを打つが、やはり四強達が牽制しあったことでイングランディーレとの差はつまらない。そのまま2周目の第3コーナーにかかる。この時点でも15馬身差がついていた。
流石にハメられたことに気が付いた後続が、第4コーナーに入るまでには追い始める。だがすでに手遅れ。脚色は鈍った(実際上り3ハロンは下から2番目である)が、馬場アナウンサーの「この馬にはスタミナがあるぞ!」という言葉の通り逃げ切り、2着ゼンノロブロイに7馬身差をつけて優勝した。見出しのセリフは、当日実況していた馬場アナウンサーの口から飛び出した言葉である。
大波乱のその後
次走に選んだのは、なんとアスコット競馬場で開催される春天のモデル競走にもなった、芝19ハロン210ヤード(約4014m)のアスコットゴールドカップ。さすがに厳しかったか、ここは9着に敗れる。
帰国初戦となるブリーダーズゴールドカップでタイムパラドックスに2着と上々の滑り出しとなるが、左前浅屈腱炎を発症し1年3ヶ月の休養に入る。休養明け2005年初戦のカシオペアステークス(陣営としてはアルゼンチン共和国杯を使いたかったとか)は12着、次走ステイヤーズSも10着とあの頃とは違い精彩を欠いていた。
2006年みなみ北海道ステークスで3着と健闘したことから、続いて出走したブリーダーズゴールドカップでは3年前に勝利していたこともあり、復活勝利も期待されて3番人気に支持される。だが、復活ならず6着に終わると、脚部不安で引退した。
引退後
引退後はマンハッタンカフェの半弟エアスマップと共に種牡馬として韓国に輸出された。主な産駒は2012年コリアンダービーを制したチグミスンガン。
2020年12月12日午後、老衰のため繋養先の韓国・済州島の金岳牧場で死亡した。享年21歳であった。
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:1980年の天皇賞(秋)(当時3,200m)を逃げ切って勝利。
:2012年の天皇賞(春)で、オルフェーヴルやウインバリアシオンら人気馬を抑えて逃げ切った。