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概要編集

日本の元競走馬

長距離を得意とし、主な勝鞍は天皇賞(春)(2004年)、ダイヤモンドステークス(2003年)、ブリーダーズゴールドカップ(2003年)。

2004年にはイギリスの伝統あるゴールドカップGⅠ。4014m)に挑戦した(9着)。


プロフィール編集


来歴編集

1999年5月21日、社台ファーム千歳市)で誕生。

父・ホワイトマズルはダンシングブレーヴが欧州に残した数少ない産駒で、1993年のデルビー・イタリアーノ(イタリアダービー)を制し、キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスで1993年・1994年と連続して2着。

母・マリリンモモコは日本在来の血統で、母父父にはブライアンズタイムクリスエスの父としても知られるロベルトがいる。

当時はサンデーサイレンス産駒が幅を利かせており、セレクトセールでは1310万円と格安で取引され、種田恵志馬主となった。


デビューから重賞初勝利まで編集

2001年

美浦の清水美波厩舎に入厩。

8月11日、新潟競馬場の新馬戦(ダート1200m)でデビューし3着。

10月7日、東京競馬場の未勝利戦(ダート1200m)で初勝利を挙げる。その後、ダートのマイルを走るが、成績はふるわなかった。


2002年

4月27日、青葉賞GⅡ)で重賞初挑戦。600m距離が伸びて2400m、芝はまだ2回目だったせいかシンボリクリスエスの13着と大敗。

6月1日、ユニコーンステークスに出走し、ヒミツヘイキの13着に敗れる。

11月30日、ステイヤーズステークスに出走し、ホットシークレットの4着と好走した。


2003年

1月25日、アレキサンドライトステークス(1600万円下)で6着。

2月16日、中山競馬場で代替開催されたダイヤモンドステークスGⅢ)に出走。8番人気と低評価であったが、斤量が軽かったことも幸いして逃げ切り、重賞初勝利を挙げる。

3月29日、日経賞(GⅡ)に出走し、GⅡ大将バランスオブゲームを抑えて重賞連勝を果たす。

5月4日、天皇賞(春)GⅠ)に出走。長距離重賞連勝が評価され、18頭中5番人気に支持された。中団前目で控える慎重なレース運びの結果、ヒシミラクルの9着に敗れた。この敗戦を受け、再びダート路線で走るようになる。

8月14日、旭川競馬場ホッカイドウ競馬)のブリーダーズゴールドカップ(GⅡ)に出走し、1着。

10月14日、金沢競馬場石川県競馬事業局)の白山大賞典(GⅢ)に出走し、1着。

11月3日、大井競馬場JBCクラシックに出走し、アドマイヤドンの6着。

12月6日、二度目の挑戦となるステイヤーズステークスに出走し、チャクラの4着。

12月23日、名古屋競馬場愛知県競馬組合)の名古屋グランプリ(GⅢ)に出走し、リージェントブラフの5着。


2004年

3月24日、船橋競馬場千葉県競馬組合)のダイオライト記念(GⅡ)に出走し、不良馬場ながらミツアキタービンの2着と好走した。


5月2日、昨年に続き天皇賞(春)に出走。前年の二冠馬ネオユニヴァース菊花賞ザッツザプレンティ、前年のクラシックや有馬記念で好走していたゼンノロブロイリンカーンの四歳四強が出走。日経新春杯京都記念の重賞2連勝を含む5連勝と絶好調のシルクフェイマスや、2年前の菊花賞でヒシミラクルとともに大波乱を巻き起こしたファストタテヤマもいて脇役も揃っていた。イングランディーレはというと、前年にダイヤモンドステークスなどを制していたとはいえ、最近はなかなか勝てておらず前走がダートだったせいか、10番人気と低評価だった。




レースが始まると、鞍上横山典弘の積極策でいきなり先頭に踊り出る。1周目のスタンド前の時点で、5~6馬身の差をつけて逃げる。先に挙げた馬たちは差し馬・追い込み馬ばかりであり、お互いにけん制しあった結果、イングランディーレとの差が広がって縦長になっていく

向正面でも15~20馬身差をつける大逃げを打つが、やはり四強達が牽制しあったことでイングランディーレとの差はつまらない。そのまま2周目の第3コーナーにかかる。この時点でも15馬身差がついていた。流石にハメられたことに気が付いた後続が、第4コーナーに入るまでには追い始める。だがすでに手遅れ。脚色は鈍った(実際上り3ハロンは下から2番目である)が、馬場鉄志アナウンサーの「この馬にはスタミナがあるぞ!」の言葉の通り逃げ切り、2着ゼンノロブロイに7馬身差をつけて優勝した。見出しのセリフは、当日実況していた馬場アナウンサーの口から飛び出した言葉である。


当時の実況は、「4歳4強も全て退けてイングランディーレの1人旅、逃げ切ってゴールイン。」であった。


騎手の横山典弘騎手にとって散々世話になった、メジロの北野ミヤさん(2004年4月に亡くなった)への追悼勝利を挙げるレースともなった。



次走に選んだのは、なんとアスコット競馬場で開催され春天のモデル競走にもなった、芝19ハロン210ヤード(約4014m)のゴールドカップ(GⅠ)で、イギリス遠征へ出かける。


6月17日、ゴールドカップに出走し、パピノーの9着に敗れる。

8月12日、ブリーダーズゴールドカップでタイムパラドックスの2着に敗れる。左前浅屈腱炎を発症し1年3ヶ月にわたる休養に入る。


2005年

11月5日、休養明け初戦のカシオペアステークスオープン)は62kgの斤量が堪え、アサカディフィートの12着。

12月3日、ステイヤーズステークスに出走し、デルタブルースの10着に敗れる。休養に入る。


2006年

8月5日、みなみ北海道ステークス(オープン)で復帰しファストタテヤマの3着に敗れる。

8月17日、ブリーダーズゴールドカップに出走。3年前に勝利していたこともあり、復活勝利も期待されて3番人気に支持されるが、ハードクリスタルの6着に敗れる。

9月29日、脚部不安で引退した。


引退後編集

引退後はマンハッタンカフェの半弟エアスマップと共に種牡馬として韓国に輸出された。主な産駒コリアンダービー(2012年)を制したチグミスンガン


2020年12月12日午後、老衰のため繋養先の韓国・済州島金岳牧場で死亡した(21歳)。


関連タグ編集

競走馬 JRA 競馬 02世代

プリテイキャスト天皇賞(秋)(1980年。当時3,200m)を逃げ切って勝利。

ビートブラック天皇賞(春)(2012年)で、オルフェーヴルウインバリアシオンら人気馬を抑えて逃げ切った。


外部リンク編集

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