概要
2000年代前半にJRAで活躍した競走馬(02世代)。GⅡ、GⅢでは好走するにもかかわらずGⅠでは勝ちきれないことから「GⅡ大将」とのあだ名で呼ばれた。
父はわずか3戦で無敗のまま日本ダービーを制すも、脚部不安のため5戦でキャリアを終えた「和製ラムタラ」フサイチコンコルド。半弟にダイヤモンドステークス3勝など長距離路線で重賞を6勝したフェイムゲーム(父ハーツクライ)がいる。
主戦騎手は田中勝春、管理調教師は宗像義忠師(美浦トレセン所属)。馬主は『ベストプレープロ野球』、『ダービースタリオン』などのゲームの生みの親であるゲームクリエイター・薗部博之。馬名の由来は「ゲームはバランスが命」(※1)。
経歴
デビュー前(1999~2000年)
1999年のセレクトセールにおいて、薗部氏とある人物が競り合った末にわずか870万円で落札された。ちなみにこのとき薗部氏と競り合ったのは「マイネル軍団の総帥」岡田繫幸氏で、セール後に岡田氏は薗部氏に売却交渉を持ち掛けてきたとのこと。
2歳(2001年)
バランスオブゲームは宗像師が「これはひょっとするかもしれない」と見込んだ通りに順調に仕上がっていった。
8月の新潟芝1000mでデビュー。2番手から楽に抜け出して調教代わりといわんばかりにデビュー勝ちを収めると、その勢いのまま木幡初広騎手騎乗のもと新潟2歳Sへ。10頭中5番人気ながらも道中2・3番手につけて内ラチ沿いをぴったりと回り、最後は後続を5馬身突き放すと、掲示板にレコードの文字を光らせる快勝で、馬主の薗部氏、調教師の宗像師の双方にとっての重賞初制覇を挙げた。
この圧勝劇の反動か、レース直後に骨膜炎を発症し次走は年末の朝日杯フューチュリティステークスに持ち越された。休み明けのぶっつけ本番が堪えたこともあり、アドマイヤドンの4着で2歳シーズンを終えた。
3歳(2002年)
翌年は休養を経てトライアルレースの弥生賞から始動。大事なトライアルレースにもかかわらずバランスオブゲームはゲート前から力みが取れずかかりっぱなしの状態で、ゲートが開いていきなりハナを奪う恰好に。しかし、新馬戦以来のコンビとなった田中勝春騎手いわく内ラチ沿いにいたカラスを見つめ出すと徐々に折り合いがつき、ラスト3ハロンも脚を持続させて逃げ切り。重賞2勝目を挙げた。
トライアルで権利を得たバランスオブゲームは続けて皐月賞に出走。7番人気とトライアル勝ちにもかかわらず人気が低く、レース本番も逃げるメジロマイヤーの後ろを道中3番手で進むも、直線で失速し8着に終わる。続く日本ダービーも同様に道中番手でレースを進めるも、優勝したタニノギムレットら後続勢の差し脚に抵抗できず、7着。
夏の全休明け初戦はセントライト記念を選択。この年はかつて初めての重賞勝利を飾った新潟競馬場開催になっていたこともあり、1番人気のアドマイヤマックスを下して重賞3勝目を挙げる。しかし、続けて出走した菊花賞ではやはり6番人気と信用されず、本番でも3角で同じ位置にいたヒシミラクルを捉えきれずに5着であった。
4歳(2003年)
古馬初レースとなった中山記念は逃げるローエングリンを捕まえきれず2着。中2週で出走した日経賞では1番人気に推され、道中4番手でレースを進めるも、最後はイングランディーレに遅れをとった。続く金鯱賞も、タップダンスシチーの逃げ切りを許す4着であった。古馬GⅠ初戦宝塚記念では武幸四郎が代打騎乗。2番手から競馬を進めたが、マイソールサウンドやタップダンスシチーといった先行勢の激しい出入りに巻き込まれたうえ、直線でシンボリクリスエスにかわされる際に姿勢を崩したこともあって、ヒシミラクルをはじめとする後続に次々と抜かれ11着と大敗した。
秋の初戦は毎日王冠。前年度にGⅠ2勝をあげたファインモーションが単勝オッズ1.3倍と圧倒的な1番人気となるなか、バランスオブゲームは鞍上を田中勝春に戻して5番人気で出走。レースが始まると半ば暴走気味に先頭に立ったファインモーションを後目にマイペースで先行。直線に入ると鮮やかに抜け出し、ファインモーションやエイシンプレストンといった後続に3馬身差以上をつけ、さらに当時のコースレコードを刻む完勝で重賞4勝目を飾った。
この結果を受け、同年のマイルチャンピオンシップでは明確な本命馬が不在のなか、サイドワインダーやファインモーション、ミレニアムバイオ、デュランダルとともに人気の一角に推される。 レースでは後続を大きく離したギャラントアローを先行策から果敢に捉えにかかるが、道中最後方で脚をため大外から飛んできたデュランダルの末脚に屈し、4着に終わった。
5歳(2004年)
5歳シーズン初戦は産経大阪杯が選ばれる。アドマイヤグルーヴやツルマルボーイといった有力馬が居並ぶなか、圧倒的1番人気に推された二冠馬ネオユニヴァースに続く2番人気で出走。ゲートが開くといつもの通り先行策をとるが、鞍上の合図にうまく応えられない仕草を見せるなど動きが怪しく、直線に向かった時点では4角地点で抜け出ていたマグナーテンとネオユニヴァースについていくことで精一杯となってしまい、4着であった。
続けて5番人気で出走した安田記念では、メジロマイヤー・ローエングリンとともに先頭集団を形成。稍重馬場で一頭直線半ばまで粘り込み、一時は先頭に立ったが、府中の長い直線を安藤勝己の巧みなコース取りで利したツルマルボーイに栄光を譲る3着であった。
その後は自身初となる夏競馬・札幌記念に出走。1番人気のファインモーション・3番人気のローエングリンとともに3強を構成する2番人気となり、ローエングリンとともに前目からの押し切りを図ったが、今度は鞍上の合図にうまく応えられたファインモーションのロングスパートに差し切られて2着入線。
秋競馬は天皇賞(秋)、マイルチャンピオンシップに出走するもいずれも単勝8番人気と支持されず、本番も見せ場なくそれぞれゼンノロブロイの9着、デュランダルの8着と振るわなかった。
6歳(2005年)
3ヶ月の休みを経て、次走は2005年の中山記念。前年度より力を落としていると考えられ、4番人気で出走。ハナを切ったダイワバンディットの真後ろにつくと、直線で力強く抜け出し、カンパニーの猛追も振り切って1年ぶりの勝利を飾った。
その後は安田記念(12番人気7着)、毎日王冠(5番人気4着)、天皇賞(秋)(16番人気11着)と転戦するも結果を残せなかった。それでも木幡初広騎手と久々のコンビを組み単勝オッズ114.7倍の13番人気で出走したマイルチャンピオンシップでは、先行集団から粘り込んで掲示板を確保(5着)し、重賞馬としての意地を示した。
7歳(2006年)
2005年シーズンには、フェブラリーステークスを目標にダート戦線への参加が試みられ、その足掛かりとして根岸ステークスから始動するも、いいところなく11着に敗れた。この結果を受けてダートではなく例年通り芝のマイル~中距離に照準が再度合わせられることとなる。
芝初戦は中山記念。グレードこそGⅡではあるのだが、この年の中山記念は前年の秋華賞馬エアメサイア、前年のマイルチャンピオンシップを優勝したハットトリック、のちのGⅠ2勝馬で前年度2着のカンパニー、そして喉鳴りから奇跡の復活を果たした2004年の皐月賞馬・ダイワメジャーと、例年にもましてマイル・中距離の強豪が集まっていた。このメンバーにもかかわらず、バランスオブゲームは同レースを2勝していることもあってトップハンデの59kgを背負わされたこともあり、6番人気での出走となった。
レースは雨が降りしきるなか、重馬場で行われた。絶対的な逃げ馬が不在の中、ゲートが開くと思い切ってハナを奪い、ダイワメジャー・エアメサイア・カンファーベストといった先団を引き連れる形でレースを進める。単騎の逃げでゆったりとしたペースを作り出すと、直線で内目の荒れ気味なコースを選び押し切りを目指す。重馬場で消耗する後ろを離していき、2番手で抵抗していたダイワメジャーに5馬身差をつけて完封、グレード制導入以降はじめて同レースの連覇を達成した。しかし、次走の安田記念は逆に先行勢に苦しい展開となってしまい、先行したバランスオブゲームもローエングリンなどとともに道中で馬群に沈み、16着に終わった。
例年であればここで休養に入るローテをとっていたが、ここで陣営は宝塚記念への出走を選択。当日は雨が降りしきり、得意としている稍重馬場に。ゲートが開くと、バランスオブゲームは外枠から敢然と先頭を奪いにかかる。中山記念と同じく時計のかかる馬場での持続力勝負に持ち込み、シルクフェイマス・ダイワメジャーを少し離す形でペースを握り、先頭に立ったまま直線へと向かう。先行勢が徐々に後退していくなかで、直線に入るまで先頭を保ち続けた。
GⅠで自らの勝ちパターンに持ち込んだバランスオブゲーム。しかし1頭、後方集団からじわりと迫りくる馬がいた。「日本競馬の至宝」ディープインパクトである。ディープインパクトは大外から楽々とバランスオブゲームを差し切っていく。バランスオブゲームはゴール板直前でさらにナリタセンチュリーにも先着を許し、3着となった。
このレースでは、ディープインパクトが単勝1.1倍のオッズで支持されており、直前にもディープインパクトの楽勝ムードが漂っていた。直線に入るまでバランスオブゲームが先頭に立っていたときのようすについて、薗部氏はインタビューのなかで、
場内が一瞬静まりかえりましたから、僕らだけ騒いでて(笑)。その後に「どーっ」と場内が沸いて、こっちが「しゅーん」って。あれは本当にすごい何秒間かでしたよ、勝っちゃうかと思いました。
と回顧している。
秋は距離延長で成績を出したことが評価されたのか、オールカマーから始動。エアシェイディ、コスモバルクらと並んで1桁オッズの4番人気と本命不在のレースであったが、逃げるメジロマントルを見ながら先行集団でレースを進める。直線で早めに抜け出すと、コスモバルクとの競り合いをわずかに首差で押し切って重賞7勝目となった。
この勝利を受け、天皇賞(秋)を目標に調整が進められるも、調教後に屈腱炎を発症。競走能力喪失と診断され、ついにGⅠ勝利のないまま引退した。
この故障引退について、主戦騎手であった田中勝春騎手は後年のインタビューで、オールカマーの発走直前にバランスオブゲームが内ラチに突っ込んで胸から激突し、その際に脚のバンテージがずれてしまったこと、そしてレースを終えた後に屈腱炎を発症したことを踏まえ、「少々発走時刻が遅れても、あの時『バンテージを巻き直してください』と言うべきでした。」と無念をにじませている。
ライバルのテレグノシスとは6勝5敗、ローエングリンとは6勝2敗だった。
種牡馬時代・引退後
引退後はアロースタッドに種牡馬として繋養されるも著しい成績不振で、2012年に種牡馬も引退。同年からはノーザンホースパーク、2021年からは乗馬クラブクレイン竜ヶ崎にて乗馬生活を送っている。
評価
何度も重賞を制しながら競走生活のなかで最後までGⅠタイトルを獲ることができなかったため、現役期間中に貼られた「トライアルの鬼」「GⅡ番長」などのレッテルを返上することができなかった。馬主の薗部氏自身も2004年ごろに『ゲームセンターCX』において有野課長からインタビューを受けた際に、「この馬はGⅠでは少し足りないところがあるので、GⅡ最多勝をめざしてほしい」と語っており、この夢がかなえられ(てしまっ)たことになる。
しかし、田中勝春騎手から「1800メートルのGⅠがあれば勝てていたと思います」との評価を受けているとおり、ファインモーションやダイワメジャーを退け、あわやディープインパクトに対しても夢を見た非根幹距離や重馬場における強さについては、多くの競馬ファンも認めるところである。現役生活の中で取引価格の約70倍を超える6億1768万5000円もの賞金を獲得したことは、間違いなくその実力の証明といえよう。
2004年に札幌記念を勝っていれば、ドウカンヤシマと並ぶ6年連続重賞制覇を達成しているはずだった程。
余談
- 田中勝春騎手は1998年にヤマニンゼファーで安田記念を制して以降、長らく中央GⅠの勝利がなかったことが知られている。2000年代前半はバランスオブゲームやサクラプレジデントなどの有力馬に騎乗していたが、バランスオブゲームの現役期間中に他馬を含めて中央GⅠ勝利を挙げることはなかった。翌年まで中央GⅠ連敗が続き、それを止めたのは2007年の皐月賞をヴィクトリーで制してのことであった。
- 宗像義忠調教師は以前にはバイオマスター、バランスオブゲームの引退以降はアブソリュートやフェイムゲームなどのオープン馬を管理していたが、こちらも長らく中央・地方GⅠを勝ちきれなかった。しかし、2022年、厩舎所属のナランフレグが、丸田恭介騎手騎乗のもとレシステンシアやメイケイエールなどを抑え込んで高松宮記念を優勝し、開業からなんと30年目にして初のGⅠ勝利を挙げた。
脚注
- ※1…『ゲームセンターCX』内のインタビューより。
関連タグ
フェイムゲーム…GⅠ未勝利ながら重賞を6勝した半弟(父ハーツクライ)。現役時代は重なっていないが、同じ宗像厩舎に所属していた。