概要
機動戦士Vガンダム第42話『鮮血は光の渦に』でのセリフ。
ザンスカール帝国の軍人であるルペ・シノは、捕虜として捕らえられた主人公ウッソ・エヴィンに対して恐ろしい拷問を行うも乳首を噛まれて逃走されるという形で失敗。
………するのだが、ルペはそんなウッソに対して自分の子供にしたいという歪んだ愛情を向けるようになり、そもそものパートナーであったアルベオ・ピピニーデンにすら嫌悪感を見せるレベルで執着していく。
が、当のウッソからすれば彼女の向ける愛情というのは一方的にエゴを押し付けられている以上の何でもなく、拒絶を込めて放ったのがこの一言である。
何よりウッソの間近にはきちんと大人の男性と恋愛をし、自分の腹を痛めて子を成したマーベットさんという存在があり、事情があるとはいえロクに面倒も見てくれなかった実母ミューラ・ミゲルとの対比構造もあってルペ・シノの行為は歪に見えた。富野作品に見られる「歪んだ母」への思いが込められたセリフと言えよう。
再注目
近年の母属性キャラクターの人気の高まりに併せて、需要と供給の関係から所謂母を名乗る不審者とされるような概念が誕生し、それに対しての一種のネタとしてこの台詞を投げるといった流れがX(旧twitter)等を中心に流行している。
しかし、あくまで押し付けであったルペ・シノと違い、母属性とされるキャラクターの全員が全員押し付けという訳では無いこと(具体例を上げるとレースで好成績を出す為のリフレッシュとしてでちゅね遊びを採用している某ウマ娘等)。
更に言うと押し付けの場合も否定的な意味合いではなくそういう無理矢理迫られる展開を楽しみたい人がいるからこその需要と供給が成立している事がほとんどであること。
そして後述でこの言葉についたネガティブな理由から該当キャラクターやそのファンに対しての誹謗中傷とも受け取られかねないので使い所については注意が必要。
そもそもガンダムの倫理観や常識で美少女モノの内容をジャッジする事自体ナンセンスであり無闇矢鱈な多用は出典の次作品から…
と言われる事にもなりかねないぞ!
また、2022年8月18日に、にじさんじに所属するVtuberのアクシア・クローネが、コラボ相手に暴言を吐く旨を注意されても「アクシアは反抗期なんだね」「私がいないとダメなんだから」と「母親ヅラ」をしてきたりまるで自身の母親のように振る舞う過激なファンに対して「これ以上迷惑かけんな。お前が好きなのは脳内で作り上げた都合のいい理想の俺か?それとも日々いろんなゲームをして楽しんでる俺か?もし前者ならもう見ないでくれ。何を言われても俺はラジコンじゃないし、言うことを聞くことは今後も一切ない。俺がやりたいことをしていくだけだから、お互い良いことなんてないから、ここでおしまい」と心情を吐露し無期限活動中止を発表した事(後に同年の11月30日をもって「にじさんじ」を卒業)から、現実では洒落にならないトラブルや事件の原因となることが改めて認知された。
依存先としての『お母さんをやる』
富野監督的に酷な分析をすると、この手の「お母さんをやろうとする女性」という存在には概ね伴侶(旦那さん)の存在が欠けているか、そもそも恋愛や結婚という過程を無視して結果(=子供)だけを欲しがり、庇護対象、擁護対象を得てそれに依存する事で自らの存在意義を確保し安定を図る傾向が強い(ブレンパワードのバロン・マクシミリアンがこれらに該当する)。
この「自身の恋愛対象」と「庇護欲養護欲を満たす対象」の同条件が混在してしまった場合において、自分よりも若く弱い立場の男性に母親面して執着する(妙齢の)女性という『おそろしい』存在を創り上げ、当タグのセリフはこれに対するカウンターとして機能するよう書かれたものと思われる。
(ただし中には何らかの事情で子供を産めない肉体になってしまった悲しい事情の女性も存在し、メイン画像のキャラクター・レイ・ビームスがそれである。この場合は、物語における悲劇性を演出するためにお母さんをやろうとしていた)
言ってみればこれは『ララァ・スンは私の母親になってくれたかもしれない女性だの裏返し』でもあり、関係性に固執し相手の個性そのものを無視して役回りを押し付けるかなりエゴイスティックな願望であり、かつ本質的には他人である以上関係性は実の親子よりも希薄で自分の都合次第では簡単に止めてしまえるような歪な愛情表現である。恋愛という過程と、出産や育児といった結果の連続性や因果関係を拒み、どちらかのみに執着するという構造で言えば「家庭の外に恋人や愛人を作っておいて妊娠が発覚すると拒絶反応を示すクソみたいな男性」に似ているかもしれない。
Vガンダム制作時の富野監督は鬱病で病みながらも【家族】というテーマに沿った物語とテーゼを模索しており、そのマニフェストにおいては『ルペ・シノのような【お母さん役】やファラ・グリフォンのような【女でいること】に固執するような女性はとうてい【母親】にはなれない』という主張が感じ取られ、当タグのこのセリフは「富野監督がこういうタイプの女がどうなるかを予言していた」と評価され、上記事件を契機に再び注目される事となった。