イェマヤ
いぇまや
アフリカ西部、ヨルバ人および、ラテンアメリカの宗教(キューバ系がサンテリアで、ブラジル系がカンドンブレという)に出てくる女神。
ヨルバ人の多神教において、水を司る超常的存在の頂点に位置する。
ナイジェリアを流れるオグン川の守護神だが、他のすべての川、それだけでなく海を含むあらゆる水が彼女の影響下にあるとされる。
彼女はまた、そうした水の中で育まれるあらゆる生命の母でもある。サンテリアより先に発生したパロ・モンテ(キューバ最古の黒人宗教 コンゴの人が興したやつ)における、マードレ・デ・アグア(水の母)とよばれる神(は「ンプンゴ」という)と習合した。
図像表現においては真珠や宝石、貝殻があしらわれ、逆巻く波がデザインされた青いドレスを着た黒髪の女性の姿で描かれる。
さらに胸当てや王冠を着用していることもある。主な持物は短剣(ダガー)である。
人魚の姿で描かれることも多い。
奴隷貿易の時代にヨルバ人奴隷を通じて中南米、南アメリカ、カリブ海にもその信仰は広まっている。
これらの土地で生まれたヨルバ系の混淆宗教においても高位の存在として位置付けられている。
カンドンブレではポルトガル語による表記で「Iemanja」あるいは「yemanjá(イェマンジャー)」と言われる。
名前はジェジェ・オモ・エハ (魚の子の意 あ、これを拝んでるサンテリアの表記はスペイン語なのでスペルが「Yeye Omo eja」)の略称と言われる。
檀原照和によれば、付き合っている男性のオリシャがかなり多く、軍神オグンから兵器の扱いを、農耕神オリシャ・オコから農業を、占いの神オルンラから占術を習っているという。また、檀原は他のオリシャから何かを習ってる可能性も示唆している。彼女はその体系を、エリンレという別のオリシャへ一応伝えているが、この漁業のオリシャは舌を抜かれている。
ローズマリ・エレン・グィリー『魔女と魔術の事典』によれば規則の聖母(Virgen de la regla マリア様だけど黒い。「水属性は黒」は五行説だけどこの辺は偶然で良い筈)と同一視される。
キューバのサンテリーアでは各オリシャに別の神格が何柱か設定される。これをスペイン語で「道」を指すCaminoで表現される。
イェマヤのカミーノは以下の通りである。
Yemaya awoyo 七色のスカートを穿いて戦に臨む。オリシャのオチュマレ(直訳すると虹)から冠を頂いている。
Yemaya okuti オグンデとも。鍛冶屋オグン・アラグ・べデ(オグンのカミーノa)の妻で、山刀を持ち旦那ゆかりの鎖を体へ巻き付け戦に出る
Yemaya mayelewo 森の泉に住む。薬草に関し広範な知識を持つ。オグンの他薬草のオリシャ・オサイン、檀原照和『ヴードゥー大全』によると「オチュン・イコレ」と書いてあるけどオチュンのカミーノで貧しい格好のイブ・イコレ(多分)と関連する。
Yemaya achaba 占術のオリシャであるオルーラの配偶者であったが彼よりも占術が上手い為別離する。頑固で強力で、a怒ると津波を興して大地をめちゃめちゃにするb眼力が凄いので彼女へうかがいを立てる際は背中から。
Yemaya konla 海藻が絡み波が打ち付ける岸辺に住む。航海士で、舵やスクリューの守護者
Yemaya asesu 海の泡や仮設トイレの汚水の中(死者が住むとされる)に住み、死者を伴って捧げものを受け取り、ゆっくりと願いを聞き届ける。
Yemaya okoto 九色のドレスを着、赤潮に住む。怒るお母さんとされ、子供をイジメる者へ容赦なく報復する。
Yemaya agana 深海にすむ 取り憑かれると土砂降りになるのですぐわかる。
ブラジル、ウルグアイでは彼女に捧げられる大規模な祝祭がある。ブラジル人などは、年末年始に海岸へ出てイェマンジャへ祈りを捧げる。
その期間(正月)は、南半球なのでもちろん真夏である。
敬虔な信徒(カンドンブレ寺院であるテヘイロから負け出た信者が大量発生したとか諸般の事情で20世紀後半から激増)は、真っ白い服を着て花束を持ち、海岸へ出てイェマンジャへ捧げる至聖所でダンス(アフリカ系とラテン系の血が暴走してるので)をする。その者らはトランス状態になるものや女神への恭順を示すため腹ばいになるものもいる。そして籠で出来た神輿の中へ鏡、香水、ネックレスなどが入れられ、男性によって海へ流される。この贈り物が波にもまれて彼方へ行けばよいのだが、波に押され、帰ってきた場合には凶兆とされるので、いろいろ大変らしい。
なおアフリカでは人魚型の神はあまりおらず、ブラジルのイェマンジャの他、セネガルのMamiwata(マミ・ワタ)とブードゥー教のラシレーン(La siren サイレン(人魚)の。鯨の娘とか嫁とか言われるが、通常の説は水属性のロア、アグウェの配偶者とされ、憑依された人はフランス語で喋る)がいる程度である。