概要
第36話で初披露されたキュアラブリー(愛乃めぐみ)のイノセントフォーム。
イノセントフォームに覚醒するまでに紆余曲折の展開をたどっている。
覚醒までの流れ
めぐみは、人助けをすることをアインデンティティとするキャラクターであることを自他ともに認められている。その思いこそがイノセントフォームのきっかけになるはずであった。
しかし、めぐみは自分がなぜ人助けをしたいのかの理由を自覚できていないという致命的な問題を持つ。
めぐみの根底には「病気のお母さんは幸福じゃない」という考え方があり、めぐみには病気を治すことができないからお母さんが代わりに喜ぶことをしてあげたいと幼いころに考えていた。本当に小さいときから母のちょっとしたお手伝いをするようになり、同年齢の子供よりもお手伝いをするめぐみを母は嬉しく思ってよく褒めてくれた。それは自我形成期の幼いめぐみには強烈な成功体験となり、母が喜ぶことをすれば自分の幸せと感じるようになったのである。そしてその母が何気なく「みんなの笑顔が一番」と言ったことから、「一番」である人助けを積極的にするようになったのである。それはあくまで本当に小さいころのことなので「幼い子供の人助けごっこ」にすぎないのだが、めぐみはそのスタンスのままで中学生にまでなってしまった。めぐみの人助けへの考え方にどこか幼いところがあるのはそのためである。
今では母への依存心は薄れているようだが、その一方で人助けについてはもはや日常生活の行動パターンにこびりついており、人助けをする理由があってしているのというより、人助けをやめる理由がないから続けているようなところがある。そのため、めぐみは自分のイノセントな思いを見つけることがなかなかできなくて覚醒が遅れてしまっている。
めぐみが自分のイノセントな気持ちに挑戦したのは、いおながイノセントフォームに覚醒した次話にあたる33話である。
めぐみは自分自身のイノセントな思いを「困った人を助けること」だとして、街中で困った人がいないか探すというある意味で本末転倒なことをしでかして、最終的にロケット打ち上げを目指す深大寺まみの押しかけ助手になってしまう。
この時に致命的だったのは、まみは一人の力で実験を成し遂げたかったという気持ちがあったことで、素人のめぐみの手助けなど邪魔でしかなかったのである。当然、迷惑ばかりかけて落ち込むめぐみ。しかし、そのまみがサイアークにされたとき、めぐみは自分自身が何もできない無力な存在であっても、それでも「誰かの力になりたい」という気持ちだけは貫きたいとしてたった一人で必死に戦った。
これはいおなやひめがイノセントフォームに覚醒したときと同じくらいのピンチであり、同じくらい強い「気持ちの高まり」があったのだが、それでもキュアラブリーはイノセントフォームに覚醒しなかった。
覚醒
めぐみがイノセントフォームに初めて覚醒したのは36話。
めぐみのイノセントな思いを覚醒させるに至ったきっかけは、めぐみのアイデンティティに多大な影響を与え続けた母親・愛乃かおりである。
「母の病気を治せば幸せになれる」とそれまで信じていためぐみだが、この話では当の母親の愛乃かおりは自分は病気が治らなくてもいいと本心から語った。かおりは「元気な娘がそばにいる今の自分を心の底から幸福である」と感じており、病気であることに何の不幸も感じていなかったのである。
このことで、めぐみは生まれて初めて人助けへのモチベーションが下がりかける。上述のように、めぐみが幼いころに人助けをはじめたのは「病気のお母さんは幸福じゃないから」である。お母さんが幸福だというならその大前提が崩れる。また、めぐみは母の幸福観を取り違えていたわけだが、それならば今までやってきた人助けの多くでも「相手が望んでいる幸福」と無関係な無駄なことをやっていた時があったんじゃないかと悩みはじめ、これから人助けを続けていく自信を失いかけた。
しかしブルーはめぐみに「自信が無くて悩む事も必要な事」だとして、逆にめぐみが落ち込んでいる現状を肯定的に捉えてもよい、と超然的な励まし方をする。
その言葉は「悩む状況を祝福する」という、解釈のしようによってはあまりに不謹慎な発言ではあったが、めぐみにとってはある種の救いになった。
その後、母をサイア-クにしたオレスキーとの戦闘となる。その中でめぐみはオレスキーに自分自身意外を信用できないトラウマ的な病理があることに気づき、それを理解しようと試みるが、オレスキーからは自身のことを理解することなど絶対に無理だと述べ、「誰かを助けたところで、感謝一つされない。この世界は最悪だ」と突き付ける。
めぐみはそれに対して明確な反論もできず、かたくなに「救われたがらない」態度を貫くオレスキーを説得する言葉を持てなかった。それでもめぐみは、(オレスキーも含めた)みんなに幸せになって欲しいという気持ちは止められないということだけは自覚し、それがめぐみにとっての「イノセントな思い」の覚醒のきっかけになった。
めぐみに必要だったのは、自分がどれだけ頑張っても誰も助けられないときもあるという冷酷な現実を受け入れることだったのである。
これはめぐみが無力だからという話ではない。いかに万能な力を持っていても、助けを求めていない人を助けることはできないというだけの話である。
母かおりがそうであったように、幸せとは他人が決められるものではなく,自分で見つけ出すものである。めぐみがどんなに相手のために献身的になっても相手が心を閉ざしていれば幸福にすることはできないし、めぐみがどんなに相手に迷惑をかけたとしても傍にいるだけで救われたと言ってくれる人もいる。この二つの違いはめぐみの頑張りだけでどうにかなるものではない。最終的には相手がどう感じるかがすべてなのだ。
だが、めぐみが相手を助けられなかったと落ち込んでいるときでも、その相手が自分で幸福をみつけてくれたならば、やはりめぐみはそれに喜びを感じられる。そのことに気づけたことで、めぐみは自分のイノセントな思いを知ることができたのだ。
それなら、めぐみは人助けなど無理してせず、ただみんなの幸せを願うだけでいいのかというとそうではない。やはり、めぐみは人助けをやめられないのである。それがひとりよがりの自己満足で、それに失敗して、相手を余計に不幸にしてしまうとしても、それを止めることができない。自分の力で誰かを助けたいというエゴもまた、イノセントな思いなのである。
自分は誰も助けられないかもしれないと悟りつつ、それでもなお誰かを助けたいという気持ちを諦めない。それは解決不能な矛盾であり、めぐみは自分がどうすればみんなの力になれるか、迷い、悩み、苦しむことになるだろう。だから、その苦悩を恐れたり否定したりするのではなく、それを受け入れて向き合っていくしかない。
これまでのめぐみはいつも幸福であろうとするがゆえに、自分の中に悩みや苦しみがあることを認めたがらなかった。だが今はもう違う。
ブルー曰く、「悩み苦しみながらも、みんなの幸せを願う」ということこそがめぐみのイノセントな思いだという。
固有決め技は「ラブリーパワフルキッス」。ルージュを塗り投げキッスをして、ハート形のシャボン玉の中にサイアークを閉じ込める。
今後の課題
「自分は無力だけれど、それでも誰かの力になりたい」という気持ちを高めているのは33話も36話も同じである。二つの話の決定的な違いは、33話でのめぐみは「諦めなければ必ず誰かを助けられる」という自信を高めており、36話では「誰も助けられないかもしれないけれど、諦めたくはない」という苦悩を高めている。
つまり、めぐみのイノセントな思いは、苦悩が核になっているのである。
これは他の仲間と比べるとあまりにシリアスなものであるが、めぐみが他人から見て不器用な生き方しかできないとしても、それを他の仲間と比較して損得を図るものではない。母のかおりが病気を受け入れつつも自らを幸福だと感じているのと同じである。
「世界中のすべての幸せを願う」という大きすぎることを真にイノセントな思いとするに相応しいのは、本来は地球の神である。人の身で簡単に背負える思いではないのだ。
「みんなの幸せは、わたしの幸せ」というめぐみの口癖をそのまま自身のイノセントな思いとしてしまっためぐみだが、めぐみのイノセントな思いについてはこれで完全というわけではないようなことが示唆されている。
ブルーは「悩み、苦しみ、自信を失うことも、めぐみの心の成長に必要なことだ」として苦悩を受容することを語っていた。これはあくまで苦悩は成長過程であって、その気持ちだけで終わるわけではないということかもしれない、
またブルーは、めぐみが「みんな」の幸せを望んでいることについて、その「みんな」の中にめぐみ自身の幸せは含まれているかについて懸念を感じ始めている。
これはブルー自身が、自分がそういう生き方を貫いたがゆえにクイーンミラージュを追い詰めてしまったという自責があるからこその懸念である。
そして、皮肉にも幻影帝国との戦いが終わった44話から、めぐみのイノセントな思いを根底から揺るがす衝撃的な展開が立て続けに起こる。
その果てにめぐみは、「みんなの幸せは、わたしの幸せ」の言葉が持つ責任の重さと、その本当の意味は自己犠牲ではなく共生であることを魂に刻み込むこととなる。
(詳細は愛乃めぐみの44話以降の解説を参照)。
愛を口にすれば逆転勝利するというお約束が保証されないからこそ、主人公が愛を口にすることの「重さ」が問われているのが『ハピネスチャージプリキュア!』の世界観なのである。
残された「問いかけ」
愛乃めぐみというキャラクターには大きな特徴があって、それはいわゆる主人公補正というご都合主義が従来よりも排除されているということである。
それは本作においては外すことのできないテーマでもあったのだが、イノセントフォームの覚醒の流れでは「主人公を差し置いて仲間たちが先にパワーアップする」ということを、めぐみの劣等感を交えたうえで詳細かつ綿密に描写したため「主人公なのに扱いがあまりに不遇だ」などといった不満の声が視聴者からあがったことは否定できない。
特によく指摘されるのが、プリキュアが児童向け番組であるがゆえの問題である。本来の視聴者層である小さなお友達にとって、主人公は視聴者の期待を裏切ることがあってはいけないのではないかという問いかけだ。
もちろん、めぐみにはめぐみとしての独自キャラクター性があり、それを他の作品のプリキュア主人公と比較する意味はナンセンスだ。ただプリキュアシリーズには主人公は必ずピンク色のコスチュームを纏うというルールがある。ということは、めぐみも歴代のプリキュアのピンクコスチュームの主人公たちと同じような活躍を期待されることは避けられないのである。
ただ、めぐみはこの後も苦悩し続けた上で、最終回でフォーエバーラブリーに至る。これこそがめぐみだけが許された究極の境地であり、最大の主人公補正である。一年を通じためぐみの物語としては、イノセントフォームは彼女にとっては通過点でしかない。そこも忘れてはいけないだろう。
それでも放映終了後の現在においても「本当にあのやり方で適切だったのか?」という議論は決着がつかないままたびたび起こっており、プリキュアシリーズに限らず「子供向け作品としての主人公とはどうあるべきか?」ということへの問いかけを残す形となった。
ちなみに後にメインスタッフ側から明かされたことでは、フレッシュプリキュアあたりからプリキュアがあまりに「みんなのための英雄」であることを強いられ、自己犠牲を賛美し肯定するような流れになりつつあったことに強い危惧を抱いていたため、あえてそれのカウンターとしての役割をめぐみに込めたと語っている。
実際、この危惧はプリキュアの主要スタッフの多くが共有していたが口には出せなかったことらしく、本作の「荒療治」のおかげで翌年作以降のプリキュアは全て「他人のためより前に、まず自分のために」プリキュアとして戦うことを受け入れていることが根底に置かれることになった。本作で問われた「イノセントな思い」の大切さはシリーズに受け継がれていったのである。
関連タグ
トゥインクルイマジネーション:こちらも主人公が最後に目覚めている。