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エレクトリーチカ
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エレクトリーチカ

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えれくとりーちか

エレクトリーチカとは、ロシア等の旧ソビエト諸国の電車、およびそれを表す言葉である。

概要

旧ソビエト各国の電化区間において運用される、都市間輸送の中距離列車(日本で言う中電)や通勤輸送の短距離列車(日本で言う国電)、およびそこにおいて運用される車両のことをエレクトリーチカと呼ぶ。車両は一部の例外を除き、2扉・デッキ付・オール3列-3列座席配置のボックスシートが基本となっている。

エレクトリーチカの特徴として、運賃の安さが挙げられる。社会主義時代の名残か、あるいは旧ソ連諸国の物価の安さを現しているのか、エレクトリーチカの運賃は我々日本人の眼から見て非常に安く設定されており、隣の町まで移動するくらいなら日本円で数十円~数百円程度の運賃しか課されない。また、一般の物売りによる勝手車内販売不正乗車等も日常的に見られ、非常に牧歌的な(?)車内の様子が展開されている。

「エレクトリーチカ」(электропоезд)はまた、ロシア語圏においては「電車」を表す一般名詞でもある。日本の山手線大阪環状線も、ロシアの人々から見れば「エレクトリーチカ」なのである。

歴史

ソ連建国の父ウラジミール=レーニンの言葉「共産主義とは、ソビエト権力プラス全土の電化である。」が示す様に、ソビエトにおいては建国から様々な分野の電化が比較的早期から行われていた。鉄道もその例外ではなく、1926年にはアゼルバイジャンのバクー=サブンチュ=スラカニ間において電化が行われた。この区間においては従来の蒸気機関車列車のおよそ2.5倍のスピードでの輸送を可能にするまずまずの成功をおさめ、その後もソビエト全国へと電化の波が押し寄せることとなった。現在では旧ソビエト諸国の電化区間における地域鉄道輸送のほとんどはこのエレクトリーチカによって賄われている。

車両

ここでは、エレクトリーチカの車両について解説する。エレクトリーチカには直流区間用と交流区間用とが存在するため、ここでは2つに分けて解説する。また、エレクトリーチカの車両のバリエーションは膨大であるため、(現時点においては)一部の主要な車両のみ掲載している。

直流区間用エレクトリーチカ

Электропоезда Баку — Сабунчи — Сураханинской электрифицированной железной дороги

長ったらしい名前であるが、ロシア語サイト等を見る限りこのように記載されている。日本語に直訳すると「バクー=サブンチュ=スラカニ電車」で、先述のソ連初の電化区間であるバクー=サブンチュ=スラカニ間で最初に使用されていた、ソ連初の電車、つまり初のエレクトリーチカである。後年のソビエトの直流電化は日本と同じ1500V、のち3000Vでなされたが、この路線は1200Vで電化がなされており、この車両も1200V仕様となっていた。1926年に14両が製造されたが、老朽化のため1940年頃に後述のС形電車に置き換えられた模様。日本の電車で例えるならば富士山麓鉄道モ1形のようなスタイリングをしていた。

С型

1929年、全国的に1500Vでの本格的な電化が始まるのと併せて製作が開始された、初の本格的エレクトリーチカである。形式名はラテン文字表記だと「S」型。2扉・デッキ付・オール3列-3列座席配置のボックスシートというエレクトリーチカの基礎はこの車両の時点で完成されていた。最高速度85km/h、加速度約0.5m/s^2とやや...というかかなり非力であったが2900両以上が製造され、ソビエト各地域で運用された。

1980年代には退役が始まった。ロシアでは1997年に退役。ウクライナではなんと2012年まで現役であったらしい。詳しくは当該記事を参照のこと。

СН型

最高速度が遅く、加速も良くない従来のС型電車の非力さを改善するため、1955年に3両編成2本が試験的に設計・製作された車両。形式名はラテン文字表記だと「SN」型。車体は前面2枚窓で、丸みを帯びた愛嬌のあるスタイル。強力な電動機の搭載やモノコック車体の採用により最高速度を130km/hまで引き上げることに成功した。

しかし最高速度が上がったものの、同車の加速度は相変わらず低いままであり、本格的な営業運転において最高速度を生かすことは出来ないとされた。そのため量産には至らず、登場からわずか7年後の1962年には引退した。その後は一部車両が電装解除され、客車として使用されていたらしい。2018年現在では保存車ではないものの2両の現存が確認されており、先頭車1両がСмычка駅、中間車1両がЧусово́й駅でそれぞれ倉庫として使用されている。

ЭР1型

СН型の加速力の低さという欠点を補うべく、1957年よりリガ車両製作工場にて製造された。形式名はラテン文字だと「ER1」型。本形式の最大の特徴はそのデザインである。機能美然としたシンプルな前面デザインの車両ばかりであったそれまでのエレクトリーチカと異なり、当車は航空機を思わせる流線型の美しい先頭部デザインを採用している。

СН型譲りのモノコック車体を搭載して軽量化を実現、MT比1:1において最高速度130km/h、加速度0.6m/s^2という(当時のエレクトリーチカとしては)高い性能を叩き出している。2594両が製造されたが、高床ホームでの使用を前提としたドア設計(=日本の路面電車やバスのようなステップが設置されていない)ために低床ホーム採用地域での使用に難があり、1962年から当車の製造はドア設計を初めとする改良・マイナーチェンジが行われたЭР2型へと移行した。現在は少数がウクライナ鉄道・クリミア鉄道で運用されている。各地の保存車は以下のとおり。

  • ЭР1-02編成(ノボシビルスク鉄道技術博物館)
  • ЭР1-06編成の先頭車(ハープサル鉄道博物館)
  • ЭР1-43編成の先頭車(ウクライナ・ニーコポリ市で展示)
  • ЭР1-228編成の先頭車・中間車各1両ずつ(カリーリングラード鉄道博物館)
  • ЭР1-229編成の先頭車(ノリリスク鉄道博物館)

ЭР2型

ЭР1型の改良・マイナーチェンジ版。リガ車両製作工場およびカリーリン車両製作工場にて1962年より製造。次のような変更点がある。

  • 先述の通り、低床ホーム・駅の無いところでの乗降(日本では考えられない話だが、現地では割と行われている...らしい。)に対応するため、ステップを設置する等ドア構造を変更
  • ドア構造の変更に伴う各フレーム部の補強
  • ブレーキ設計の変更
  • その他機器類の改良

同車は1984年までの間に9211両が製造され、ソ連の直流区間各地で運用された、正にキング・オブ・エレクトリーチカと言える車両である。近年製造されたエレクトリーチカの多くはこの車両をベースとしている。1974年度製造分の途中より、前面デザインが特徴的な流線型から直線的な形へと変更された。登場から56年も経た現在においても多くが旧ソビエト各国において活躍している。しかし流線型の初期型については新型車の導入によって退役が進んでいる。保存車多数。

ЭД2Т型

ЭР2型のソ連崩壊後の製造バージョン。ラテン文字表記は「ED2T型」。製造工場がデミホヴォ機械製造工場に変更され、制御装置などもより新しいものとなった。1993年から2004年まで製造。

ЭД4型

ЭД2Т型をベースに製造された車両で、主に前面デザインを変更しつつ1997年から2016年まで製造された。

ЭР22型

通勤時間帯における乗降を容易にするため、車体長を延長してドアを追加(2扉→3扉)した「ソビエト版多扉車」。1964年から1976年まで断続的に増備された。現在はカザフスタンのステプノゴルスクで少数が現役のほか、保存車も各地に存在する。

なお余談であるが、この車両の前頭部を魔改造し、ジェットエンジンを取り付けた試験車(Реактивный вагон СВЛ、日本語に直訳するとジェットカーSVL)が存在した。実験の結果、通勤電車の頭にジェットエンジンを設けただけにもかかわらず最高速度250km/hで走ったとの事。まさにおそロシア

交流区間用エレクトリーチカ

ЭР7型

初の交流用エレクトリーチカ。車体はЭР1型とほぼ同一の仕様。1959年、および1961年に全42両が製造されたが、搭載されたイグニトロン整流器の不具合が多く、試験的な意味合いが強かったこともあって1972年には早くも退役した。現在も廃車体がロシア各地に残っている。

ЭР9型

交流用エレクトリーチカとしては初の本格的な量産車両。車体はЭР2型とほぼ同一の仕様で、1974年度より前面デザインが変更されているのも同じ。1962年から2002年までの40年間に渡って製造が続けられた。ЭР2型と並んでキング・オブ・エレクトリーチカと言える車両。保存車多数。

ЭД9型

1995年より2016年まで製造。ЭР9型をベースとして数々の改良が加えられている。製造年が下るに伴って前面デザインが徐々に変更されているのは直流用のЭД4型と同じ。

概要

旧ソビエト各国の電化区間において運用される、都市間輸送の中距離列車(日本で言う中電)や通勤輸送の短距離列車(日本で言う国電)、およびそこにおいて運用される車両のことをエレクトリーチカと呼ぶ。車両は一部の例外を除き、2扉・デッキ付・オール3列-3列座席配置のボックスシートが基本となっている。

エレクトリーチカの特徴として、運賃の安さが挙げられる。社会主義時代の名残か、あるいは旧ソ連諸国の物価の安さを現しているのか、エレクトリーチカの運賃は我々日本人の眼から見て非常に安く設定されており、隣の町まで移動するくらいなら日本円で数十円~数百円程度の運賃しか課されない。また、一般の物売りによる勝手車内販売不正乗車等も日常的に見られ、非常に牧歌的な(?)車内の様子が展開されている。

「エレクトリーチカ」(электропоезд)はまた、ロシア語圏においては「電車」を表す一般名詞でもある。日本の山手線大阪環状線も、ロシアの人々から見れば「エレクトリーチカ」なのである。

歴史

ソ連建国の父ウラジミール=レーニンの言葉「共産主義とは、ソビエト権力プラス全土の電化である。」が示す様に、ソビエトにおいては建国から様々な分野の電化が比較的早期から行われていた。鉄道もその例外ではなく、1926年にはアゼルバイジャンのバクー=サブンチュ=スラカニ間において電化が行われた。この区間においては従来の蒸気機関車列車のおよそ2.5倍のスピードでの輸送を可能にするまずまずの成功をおさめ、その後もソビエト全国へと電化の波が押し寄せることとなった。現在では旧ソビエト諸国の電化区間における地域鉄道輸送のほとんどはこのエレクトリーチカによって賄われている。

車両

ここでは、エレクトリーチカの車両について解説する。エレクトリーチカには直流区間用と交流区間用とが存在するため、ここでは2つに分けて解説する。また、エレクトリーチカの車両のバリエーションは膨大であるため、(現時点においては)一部の主要な車両のみ掲載している。

直流区間用エレクトリーチカ

Электропоезда Баку — Сабунчи — Сураханинской электрифицированной железной дороги

長ったらしい名前であるが、ロシア語サイト等を見る限りこのように記載されている。日本語に直訳すると「バクー=サブンチュ=スラカニ電車」で、先述のソ連初の電化区間であるバクー=サブンチュ=スラカニ間で最初に使用されていた、ソ連初の電車、つまり初のエレクトリーチカである。後年のソビエトの直流電化は日本と同じ1500V、のち3000Vでなされたが、この路線は1200Vで電化がなされており、この車両も1200V仕様となっていた。1926年に14両が製造されたが、老朽化のため1940年頃に後述のС形電車に置き換えられた模様。日本の電車で例えるならば富士山麓鉄道モ1形のようなスタイリングをしていた。

С型

1929年、全国的に1500Vでの本格的な電化が始まるのと併せて製作が開始された、初の本格的エレクトリーチカである。形式名はラテン文字表記だと「S」型。2扉・デッキ付・オール3列-3列座席配置のボックスシートというエレクトリーチカの基礎はこの車両の時点で完成されていた。最高速度85km/h、加速度約0.5m/s^2とやや...というかかなり非力であったが2900両以上が製造され、ソビエト各地域で運用された。

1980年代には退役が始まった。ロシアでは1997年に退役。ウクライナではなんと2012年まで現役であったらしい。詳しくは当該記事を参照のこと。

СН型

最高速度が遅く、加速も良くない従来のС型電車の非力さを改善するため、1955年に3両編成2本が試験的に設計・製作された車両。形式名はラテン文字表記だと「SN」型。車体は前面2枚窓で、丸みを帯びた愛嬌のあるスタイル。強力な電動機の搭載やモノコック車体の採用により最高速度を130km/hまで引き上げることに成功した。

しかし最高速度が上がったものの、同車の加速度は相変わらず低いままであり、本格的な営業運転において最高速度を生かすことは出来ないとされた。そのため量産には至らず、登場からわずか7年後の1962年には引退した。その後は一部車両が電装解除され、客車として使用されていたらしい。2018年現在では保存車ではないものの2両の現存が確認されており、先頭車1両がСмычка駅、中間車1両がЧусово́й駅でそれぞれ倉庫として使用されている。

ЭР1型

СН型の加速力の低さという欠点を補うべく、1957年よりリガ車両製作工場にて製造された。形式名はラテン文字だと「ER1」型。本形式の最大の特徴はそのデザインである。機能美然としたシンプルな前面デザインの車両ばかりであったそれまでのエレクトリーチカと異なり、当車は航空機を思わせる流線型の美しい先頭部デザインを採用している。

СН型譲りのモノコック車体を搭載して軽量化を実現、MT比1:1において最高速度130km/h、加速度0.6m/s^2という(当時のエレクトリーチカとしては)高い性能を叩き出している。2594両が製造されたが、高床ホームでの使用を前提としたドア設計(=日本の路面電車やバスのようなステップが設置されていない)ために低床ホーム採用地域での使用に難があり、1962年から当車の製造はドア設計を初めとする改良・マイナーチェンジが行われたЭР2型へと移行した。現在は少数がウクライナ鉄道・クリミア鉄道で運用されている。各地の保存車は以下のとおり。

  • ЭР1-02編成(ノボシビルスク鉄道技術博物館)
  • ЭР1-06編成の先頭車(ハープサル鉄道博物館)
  • ЭР1-43編成の先頭車(ウクライナ・ニーコポリ市で展示)
  • ЭР1-228編成の先頭車・中間車各1両ずつ(カリーリングラード鉄道博物館)
  • ЭР1-229編成の先頭車(ノリリスク鉄道博物館)

ЭР2型

ЭР1型の改良・マイナーチェンジ版。リガ車両製作工場およびカリーリン車両製作工場にて1962年より製造。次のような変更点がある。

  • 先述の通り、低床ホーム・駅の無いところでの乗降(日本では考えられない話だが、現地では割と行われている...らしい。)に対応するため、ステップを設置する等ドア構造を変更
  • ドア構造の変更に伴う各フレーム部の補強
  • ブレーキ設計の変更
  • その他機器類の改良

同車は1984年までの間に9211両が製造され、ソ連の直流区間各地で運用された、正にキング・オブ・エレクトリーチカと言える車両である。近年製造されたエレクトリーチカの多くはこの車両をベースとしている。1974年度製造分の途中より、前面デザインが特徴的な流線型から直線的な形へと変更された。登場から56年も経た現在においても多くが旧ソビエト各国において活躍している。しかし流線型の初期型については新型車の導入によって退役が進んでいる。保存車多数。

ЭД2Т型

ЭР2型のソ連崩壊後の製造バージョン。ラテン文字表記は「ED2T型」。製造工場がデミホヴォ機械製造工場に変更され、制御装置などもより新しいものとなった。1993年から2004年まで製造。

ЭД4型

ЭД2Т型をベースに製造された車両で、主に前面デザインを変更しつつ1997年から2016年まで製造された。

ЭР22型

通勤時間帯における乗降を容易にするため、車体長を延長してドアを追加(2扉→3扉)した「ソビエト版多扉車」。1964年から1976年まで断続的に増備された。現在はカザフスタンのステプノゴルスクで少数が現役のほか、保存車も各地に存在する。

なお余談であるが、この車両の前頭部を魔改造し、ジェットエンジンを取り付けた試験車(Реактивный вагон СВЛ、日本語に直訳するとジェットカーSVL)が存在した。実験の結果、通勤電車の頭にジェットエンジンを設けただけにもかかわらず最高速度250km/hで走ったとの事。まさにおそロシア

交流区間用エレクトリーチカ

ЭР7型

初の交流用エレクトリーチカ。車体はЭР1型とほぼ同一の仕様。1959年、および1961年に全42両が製造されたが、搭載されたイグニトロン整流器の不具合が多く、試験的な意味合いが強かったこともあって1972年には早くも退役した。現在も廃車体がロシア各地に残っている。

ЭР9型

交流用エレクトリーチカとしては初の本格的な量産車両。車体はЭР2型とほぼ同一の仕様で、1974年度より前面デザインが変更されているのも同じ。1962年から2002年までの40年間に渡って製造が続けられた。ЭР2型と並んでキング・オブ・エレクトリーチカと言える車両。保存車多数。

ЭД9型

1995年より2016年まで製造。ЭР9型をベースとして数々の改良が加えられている。製造年が下るに伴って前面デザインが徐々に変更されているのは直流用のЭД4型と同じ。

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