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生没年 1881年~1969年


ソ連邦元帥、国防人民委員、最高会議幹部会議長を歴任し、ソ連邦英雄勲章2回授与と聞くと聞こえはよいが、ヴォロシーロフの場合は英雄という言葉とは裏腹に、コウモリのようなムーブメントを続けた人物。通称KVおじさん


概要編集

1881年2月4日に、ロシア帝国のエカテリーノスラフ県(現在のウクライナルハーンシク州)に生まれる。

鉄道労働者の家庭に育ったが、長じてからはストライキに参加し、工場をクビになった過激派。

その後ボリシェヴィキに入党し、ロシア社会民主労働党第4回大会・開催地ストックホルムにてウラジーミル・レーニンヨシフ・スターリンと出会う。特にスターリンの飲み友達になったことが後に彼を元帥にまで上り詰めさせる要因となった。

ロシア革命勃発後は、前線部隊の司令官や政治将校を務めたが、軍事教育を受けていないため敗北を重ねるだけであった。

革命後も出世を続け、1925年に国防大臣である陸海空軍人民委員(1934年に国防人民委員に改称)に就任。さらに1935年にはソ連邦元帥となった。

粛清時代では、なんでも告げ口するポジションにつき、したたかに生き残る。

冬戦争の時には、公衆の面前でスターリンを罵倒(なぜフィンランドに勝てないのだ!と苛立つスターリンに「あなたが大粛清をしたからでしょうが!」)して生き残った唯一の人物。このこともあってか、戦後の1940年3月に15年務めた国防人民委員を解任される。

大祖国戦争開戦時に北西方面軍司令官を務めたが、レニングラードへ侵攻したドイツ軍の進撃を止めることはできず解任され、その後はソ連国家防衛委員会のメンバーとして戦中を過ごした。

戦後はハンガリーの共産化を推し進め、ソ連に帰還後は政治局員を務めた。

スターリンの死後は冬戦争時代の自分の軍事センスのなさを「痰壺」と酷評したニキータ・フルシチョフに速攻で鞍替えし、首相になったゲオルギー・マレンコフとフルシチョフの推挙により、1953年最高会議幹部会議長に就任した。

1960年5月に最高会議幹部会議長を退任し、7月に政治局員を解任。翌61年に中央委員から退き年金生活を送ったが、フルシチョフ失脚後に返り咲きを果たした。

軍事指揮官としての才能は無に等しかったが、戦時経済の構築など政治面では優れた人物だったとの評価もある。


義理の息子コーチンはキーロフスキー工場の主任技師だったが、工場肝入りの多砲塔戦車に工場の名前の由来となったセルゲイ・ミローノヴィチ・キーロフ名を付けた一方、独自の代替案である単一砲塔型の重戦車(KV-1)には義父であるヴォロシーロフの名前を付けている。これについてはスターリンが多砲塔戦車に猜疑的であったことから採用される見込みの高い単一砲塔型重戦車にスターリンと交流の深いヴォロシーロフの名前を、そして見込みの薄い多砲塔戦車にはスターリンと不仲だったと噂されるキーロフの名前を付けたとも言われている。

出身地ルハーンシク州の都市のひとつにヴォロシロフグラードという名前まで付けられたが、1950年代後半にルハーンシクに改称された。


創作のヴォロシーロフ編集


関連タグ編集

ソビエト連邦 ソ連 元帥 赤軍

コウモリ KV-1 KV-2

ヨシフ・スターリン

ポーリュシカ・ポーレ


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