学習漫画界のカリスマ的存在として知られた漫画家。帽子を被った少年と少女、ブタ、ネコ、ネズミに犬…といったあの作品の作者である。
概要
熊本県水俣市出身。元は手塚治虫の作品修正などの裏方に徹していたが、それがきっかけで漫画家を志し、毎日小学生新聞の挿絵などを担当していた。そこへ学研からお呼びがかかり、同社の主力学習雑誌、学研の科学、学研の学習に漫画を発表していく。
すると、その親しみやすい画風、明解な解説、それに際だったユーモア、ギャグセンスなどが人気を呼び、当時月販670万部(どれだけ凄いかというと…全盛期のコロコロコミック以上、単純な販売実績でいえば全盛期の週刊少年ジャンプ並みである)を誇った同雑誌の中で最も人気のある漫画家となっていた。また、同時期に発売し大ヒットを遂げた学研ひみつシリーズでは「コロ助の科学質問箱」「できる・できないのひみつ」などの人気作を担当。
しかし、学習漫画という性格上、活躍は全く表舞台に出ることはなく、本人すら世間で知られているかどうか把握できない状態だったといい、晩年には泣き言のように「一度ぐらいは漫画家として世に知られる作品を出してみたかった」と息子に告げていたらしい。
きっかけ
だが、そんな彼が実は隠れた人気漫画家だったことを窺わせる出来事が起きた。
2004年9月2日に内山が大腸癌で逝去。毎日新聞の社説記事や読売新聞のインターネット記事などに訃報が記載され、それが匿名掲示板「2ちゃんねる」に転載されると、想像以上の反響を呼ぶことになり、14時から始まった追悼スレッドは翌日の25時に1000レスに到達してしまい、更に別の板に移りながらスレッドは長く続いていった。その中で、数々の「自分が理系の道に進むようになったきっかけ」「彼の作品がなかったら自分は国立大で研究員やってない」など次々と讃辞・感謝・追悼のレスが相次いで投稿され、また彼に並行して同時期に活躍した他の学習漫画家たちも同様に愛されていたことを物語る出来事が起きたのである。
これは学研の当事者ですら、ここまで彼ら学習漫画家に多くの愛好者がいて、しかもずっと思い出をとどめていたことが全然知られていなかった(これは1985年に内山が同社の契約を満了していたため、世代が入れ替わっているのも原因)。その後有志がその掲示板レスの一部始終を遺族、学研などに寄贈している。また、遺族によると氏は遺言として自分の漫画家としての活動を知ってもらいたいと横浜市に原稿を寄託するように告げていたが、その特別展示の際にも、これらの掲示板のレスが展示され、また会場では遺族が感謝のコメントを返している。
これらの反響を受け学研側もいわば今でいう「思い出コンテンツ」事業に照準を合わせ、内山安二や他の学習漫画にスポットを当てるようになり、創刊号では同氏の追悼特集が組まれることになった。それが後のヒットシリーズとなる「大人の科学(マガジン)」シリーズとなり、当時、経営不振に陥っていた学研再生のきっかけになったともいわれている。
氏の人気は根強く、2018年にはKindleなどで学研ひみつシリーズの再版もされ、しかも「できる・できないのひみつ」が学習漫画部門で1位になったこともある。更に内山安二コレクションというベスト作品集まで刊行され、電子書籍で読むことができる。
影響を受けた漫画家
あさりよしとおはこの作者の『コロ助の科学質問箱』に感銘を受け、学習漫画を描きたいという思いを込めるようになり、生前に対談も果たした。その念願かなって実現した作品が『まんがサイエンス』である。
また『地獄先生ぬ~べ~』の作者の一人、岡野剛も学研まんがのファンで、大きく影響を受けたことを公言しており、それをリスペクトした作品が『未確認少年ゲドー』で、学習まんがっぽい展開の話があったりする。ほかにも影響を受けたと思われる漫画家は少なくなく、時折それらしきパロディも見られる。
関連イラスト
できるできないのひみつ
コロ助の科学質問箱