概要
日清戦争において日本が勝利したことにより、下関条約によって清朝から日本の統治となった台湾から、日本軍に志願兵として入隊した台湾人の兵士(軍人・軍属)のことである。「台湾人日本兵」「台湾籍日本兵」1944年4月以降に志願した者は「台湾特別志願兵」とも称された。
彼らは主に第二次世界大戦において、[[[連合軍]]と戦い、中には将校まで上り詰めた人物もおり、台湾原住民の軍属で構成された特殊部隊『高砂義勇隊』が特に有名である。
後の台湾総統である李登輝も、元日本軍兵士で階級は少尉だった。
経緯
最初に採用が行われたのは、1942年における陸軍特別志願兵制度の開始からとされるが、1937年からすでに台湾総督府により、部隊内で雑役に従事する軍夫の募集が開始しされていた。
これは日中戦争における中国戦線の拡大により、翻訳の必要があったからであり、多くの台湾人軍属が募集され、主に福建語・広東語・北京語の通訳に当たっていた。
日本統治時代において台湾人は日本民族の一員として受け入れられたが、日本人と全く同じ扱いだったわけではなく、台湾住民は従来の内地出身者とは異なる「本島人」として戸籍を区別され、内地人には義務であった徴兵は行われなかったが、参政権は持っていなかったなど、領土と言うよりは保護国の扱いに近かった。
それ故に、台湾と日本では法体系も議会制民主主義の進度に格差が生じていることに不満を持つ者も少なくなかったため、台湾人の地位向上には戦争に身を投じ、功績をあげることで権利を獲得すべきであるという機運が高まっていた。
志願制度が施行されると、数多くの台湾人たちが兵役に志願し、1942年における第1回の応募では、1000名の定員にもかかわらず、42万5961名という当時の台湾青年の14%に相当する数の志願者が殺到した。
第2回においても、同じく1000名の定員に対し、更に多い60万1147名が兵役に志願している。
1943年5月12日において、朝鮮と同時に実施された海軍特別志願兵制度が行われた際にも、第1回は3000名の訓練生定員に対し、31万6097人の台湾人が志願した。
戦いで命を落とした台湾人戦死者のうち、2万6000人は東京の靖国神社に合祀されており、日本と台湾の双方に尽くした英雄として祀られている。その中には李登輝の兄である李登欽(日本名:岩里武則)も含まれている。
戦後補償
降伏に伴う連合国の占領下における日本の台湾放棄により日本国籍を喪失した台湾人は、日本国政府による戦争被害の補償対象から除外され、元軍人・軍属やその遺族に対する障害年金・遺族年金・恩給・弔慰金のみならず、戦争中の未払給与や軍事郵便貯金(上述)等の支払いも、一切行われなかった。
1952年4月28日の日華平和条約では、日台間の財産・請求権問題は「日本国政府と中華民国政府との間の特別取極の主題とする」と定められたが、日本政府は対応に消極的で、国民政府も戦後に日本から接収した財産の正当性や取り扱いが議論されることを懸念し、加えてかつての「敵」である台湾人元日本兵の問題には無関心であった。
結局、話し合いがなされないまま日本の中華人民共和国との国交樹立に伴い日台国交は断絶した。日本を愛し、本土の日本人と同じように日本のために戦地に赴いたにもかかわらず手当を受けられずにいる台湾人元日本兵は、烈しい不満と悔しさの念を抱くこととなった。
1970年代に台湾人元日本兵スニヨンがインドネシアで発見されると、戦後補償への機運が高まったが日本政府の対応は変わらず鈍く、いくつかの解決策がなされたがトラブルも多く、憤激した元隊員による交流協会への襲撃事件も起きている。
戦時中に、台湾原住民による特殊部隊である高砂義勇隊を部下に持った元日本陸軍少尉は戦後の日本政府の薄情さに怒り、「我々日本人の恥である。戦友として誠に忍びない。国が補償しないなら、俺がする。ほんの気持ちだ」と言って高砂義勇隊の部下20数名に10万円ずつ贈り、これに元高砂義勇隊たちは皆涙し、「この金を戴くわけにはいかない」と言って全額を返したという。
主な日本軍台湾人兵士
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