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プロフィール編集

生没年:1176年~不明

通称:和田三郎、朝比奈三郎

父:和田義盛

母:不明


経歴編集

和田義盛の三男。安房国朝夷(あさひな)郡に所領を持ちそこから朝比奈を称したとされる。その怪力伝説から巴御前の子とされるが義秀の生年は1176年であり、巴の主君だった源義仲が兄の今井兼平と共に近江国粟津で源範頼軍相手に討死したのが1184年であることから、この話は創作である。

38歳(『吾妻鏡』による)だった1213年に発生した和田一族と北条義時との和田合戦では和田方の主力として無双し北条方を恐れさせた。その武勇は凄まじく金棒御所に押し入り門を破壊。若宮大路を守っていた北条泰時の弟・名越朝時を一騎打ちで蹴散らし泰時を敗走させ、同族ながら北条方に味方した従兄弟の高井重茂を討ち取り、義時の甥・足利義氏(尊氏らの先祖)の鎧袖を引き剥がした。しかし、弟・義直や父・義盛が討死するなどして敗戦、義秀や長兄・常盛は戦場を脱出したが常盛は逃走先の甲斐で自害、義秀は所領のある安房へ逃れたとされるがその後の生死は不明。はるばる高麗まで逃げ延びたとか、熊野へ落ち子孫は捕鯨の漁師になったという説がある。


逸話編集

  • 大力のみならず水練の達者でもあった。ある宴で源頼家から「海を泳げるか?」と聞かれ、岸まで十往復,更に鮫まで捕まえてきたという。
    • その褒賞に奥州産の名馬を賜おうとすると、この馬はかねてより兄・常盛が所望していたものなので、常盛は相撲ならば弟には負けないと言い出し、浜で相撲の対決をした。双方とも大力で容易に勝敗は決しなかったため、北条義時が間に入って引き分けさせた。が、常盛は衣を着替える間もなく馬に飛び乗って去ってしまった。義秀は大いに悔しがり、その座にいた者は大笑いしたという。
  • 「朝比奈切通し」を一日で作ったという伝説がある。ちなみに切通とは山の尾根を切り開いた道。鎌倉には七口あり、その一つが現在の鎌倉市横浜市金沢区を結ぶ“朝夷奈切通(あさいなきりどおし)”。国史跡としての名称が“朝夷奈”で、通称は朝比奈。この切通には上総広常の供養塔がある。

関連動画編集


創作上の朝比奈義秀編集

NHK大河ドラマ編集

父親に弟や従兄弟と同じ髭面で「無数の和田義盛」の一人。巴とは義理の母子という設定。鮫を捕まえた逸話を思わせる牙のネックレスのようなものを付けている。和田合戦で父や弟たちと共に北条義時や三浦義村の騙し討ちに遭う。義秀は深手を負いながらも巴に逃げるように促し巴は戦場を脱出したが義秀自身はその場で力尽き討死した。


関連タグ編集

源平盛衰記 和田合戦 平安時代 鎌倉時代 鎌倉武士

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鎌倉 坂東 朝比奈

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