概要
※明智光秀は前半生の確たる史料が乏しいため、以下は信憑性に欠ける記載であることに注意
明智光秀は子が7人(3男4女、別説として6男7女)居たとされている。側室はいなかったとされているが、史料によっては側室や前室(正室との婚姻の前に子供を産ませるなどした女性の事)が居たとも記されている。また妾も居たとされている。
とは言っても、実在が確認できる子は、明智十五郎一人である。光秀の書状など信頼できる史料に名が記されているのでその存在はほぼ確たるものなのだが、諱(実名)が不明な上に明智軍記や明智系図にはその名が無い。
他に明智軍記に登場する長男:明智光慶も実在したとされているが、そもそも明智軍記の信憑性が低いため、その実在性も実在したとしても本当に光秀と煕子の子であるのかも含め、検証が必要である。
正室以外に確たる女性の存在が確認できないのは、この時代(婿入りを除けば)非常に珍しいため、本来名前すら残っていないことも多い戦国時代の姫たちの中でも熙子の知名度は高い。
生まれは土岐家分流の妻木家とされ、「妻木熙子」の名で呼ばれることもある。最も「熙子」の名は一次資料は無く、『絵本太閤記』では照子となっているので、これを読み間違えたとする説もある。他にも「伏屋姫」「お牧」などの名でも知られる。
美濃(岐阜県)の豪族・妻木範熙の長女として生まれる。夫同様に生年は不明であるが、1530年説が有力とされる。光秀とは幼い頃より顔なじみだったようだ。縁談が決まった直後、病にかかり左頬に疱瘡(あばた)が出来たため瓜二つの妹を輿入れさせるも、光秀はすぐに見破り、「疱瘡など知ったことか、私の妻はおぬしだけだ」と迎えたという。
ところがその矢先に光秀の主家・斎藤道三は、息子・斎藤義龍より謀反を受ける。光秀は身重だった熙子を背負い城を抜け出し、長い浪人生活を送った。そんな中でも熙子は明智家臣団と共に旅を続けたという。
やがて光秀は越前(福井県)の朝倉義景に仕えるも生活は苦しいままだった。そんな折、光秀は連歌会の主催を任されていたが、酒も食事も足りず苦労していた。それを知った熙子は当時女性の美の象徴とされていた長い黒髪を切り落とし、それを売って金を工面した。まるでO・ヘンリーの『賢者の贈り物』であるが、この話は松尾芭蕉も題材にしたことで知られている。
月さびよ 明智が妻の 咄せむ
やがて光秀は従妹・濃姫のツテと、朝倉が抱えていた足利義昭とのコネで織田信長に仕えることとなる。身分も陣営も問わず優秀な人材を正当に評価する信長の下で、光秀はメキメキと腕を伸ばしていった。
1576年、熙子は病に倒れた。光秀は快癒を願い、ほどなくして病状は持ち越した。しかし、それから1月と経たぬうちに再び病に襲われ、熙子は光秀を残しこの世を去る。
享年、46歳。この年は芭蕉が先の句を詠んだ年と同じであった。
一説によれば40にも満たなかったとも言われる。
なお、かの有名な細川ガラシャは彼女と光秀の2女にあたる。
妹について
※明智光秀は前半生の確たる史料が乏しいため、こちらも信憑性に欠ける記載であることに注意してください。
明智光秀には“妻木”という名の妹が居たとされているが、実の妹ではなく妻の煕子の妹で義妹ではないかとも言われている。
また煕子と瓜二つの妹と言うのが“妻木”ではないかともされている。
光秀は“妻木”の才を買っていて、主君信長の下で「女房(奥向きの使用人)」として仕えさせ、信長との間の連絡係としていた。また“妻木”は双方の意思疎通が円滑に行くよう心配りをしていた。
“妻木”の死を光秀はたいそう哀しんだとされており、またその死が「本能寺の変」の遠因となったとの説もある。
創作
信長の忍び
光秀(該当項目参照)の幼馴染。かなりの巨乳で、朝倉家臣団たちがうらやましがるほどの美人。疱瘡を隠すために左の前髪を伸ばしている。
非常によくできた、できすぎた妻であるがゆえに、彼女の死は光秀の生涯最大の事件の最初の引き金となる。
殿といっしょ
非常に勝気な性格であるが、あまりに長い流浪生活故にかなり金銭感覚がシビアで、事あるごとに徴税官ばりに夫からチップを要求する。勿論、誰よりも夫の事を愛しているため、戦の際には夫の武運長久を祈り、その都度貯金をしている良妻賢母。
髪を切った逸話は借金返済のために博打で擦ったというオチになっており、髪が売れることに味を占めてか寝ている間に夫を丸ボーズにして髪を売りバレないようにヅラを被せるという工作まで働いている。
関連項目
細川忠興:娘婿。歴史書に名を遺すほどの問題児。でもこいつが居たから光秀の血脈は現代まで残った。