概要
本名:柴田吾郎。
男前な顔つきと180cmの高身長という恵まれた容姿、そして人物像を選ばない幅広い役作りを得意としたことで、学習院大学大学在学中から大映入り。
以降、様々な映画に出演しては知名度を上げた。
大映における単発・シリーズもの等の躍動的な活躍
単発映画のみならず大映が恒例化していく定番シリーズものでも、『悪名』シリーズ・『黒』シリーズ・『犬』シリーズと助演または主演をこなし好評を得た。
『悪名』シリーズは、朝吉役の勝新太郎主演でモートルの貞&清次役で助演。大映での最終作『悪名一番勝負』と、東宝+勝プロの完結作『悪名縄張荒らし』には未出演。
※『悪名縄張荒らし』では、モートルの貞は北大路欣也が演じた。
独立した1作完結だった『黒』シリーズは宇津井健が3作と川崎敬三が1作と主演したが、田宮は7作と主演作は最多だった。
※シリーズの伝説である増村保造監督・『黒』3部作で、『黒の報告書』の主演だった宇津井とは『黒の切り札』で共演した(『黒の試走車〈テストカー〉』と『黒の超特急』は田宮が主演)。
『犬』シリーズは、大映唯一の単独主演シリーズで鴨井大介役を一貫で演じた(田宮と共に全作品に出たのは坂本スミ子のみだった)。シリーズ最終作『勝負犬』では、自身が唄った『青い犬のブルース』が披露され大映レコードからシングルがリリースされた。
※この歌はユニバーサル ミュージックの『シネマスタア・コレクション アクションスタア編』(UICZ-6007)と、テイチクエンタテインメントの『昭和銀幕ハードボイルドベスト』(BHST-250)に収録されている。
転落と復帰…。『白い巨塔』へのこだわりの果て…
1960年代後半には大映のトップスター扱いされるようになり、映画界で地位を確立したものの、田宮自身の増長もあり後に大映との軋轢が生じ、映画界を追放されてしまう。
しかし田宮はただでは転ばず、1969年に放送開始したクイズ番組『クイズタイムショック』の司会者に抜擢されると、映画とは異なる親しみやすいキャラクターと巧みな話術を披露。
お茶の間のシンボルとして親しまれるようになり、更に同年には東映から映画に再出演し、再起を遂げた。
1978年放送の『白い巨塔』では主役の財前五郎役に1966年の映画に続き再抜擢される。
田宮は財前の人物像を非常に気に入っており、役作りに一段と熱を上げていた。
これは、名前が自身の本名と同じ「ごろう」であったことも影響していた。
しかし、この頃から躁うつ病で精神的な安定を欠き、更に金銭トラブルや奇行の噂が絶えなくなる(そうなった背景には会社ゴロによる度重なる脅迫や、M資金詐欺により負わされた多額の借金などがあったとされる)。
物語終盤になると鬱がひどくなり、無理を押しての撮影となった。
『白い巨塔』はなんとか撮影を完了したが、あまりにも財前役に入れ込み過ぎたせいでモチベーションを失い、虚脱感に苛まれていたという。
また、同年には体調不良を理由に『クイズタイムショック』の司会を降板し山口崇と交代した。
1978年12月28日、自宅で散弾銃を使って自殺を遂げた。43歳没。
『白い巨塔』が世間の注目を集めていたこともあり、田宮の死は衝撃的なニュースとして扱われた。田宮の死の時点で『白い巨塔』はあと2回の放送を残していたが、それまで12~13%程度だった視聴率が田宮の死によって最終回直前の回で26.3%、最終回で31.4%と倍以上に跳ね上がった。このことに対し、番組関係者は「自殺という悲劇が視聴率を上げた」として、視聴者に対して憤慨するコメントをしたという。
『白い巨塔』最終回の本放送では、「完」と表記された後に「田宮二郎さんのご冥福をお祈りいたします」とテロップが挿入された。
このような複雑な生涯を送った田宮だが、これらの永遠に残る映像作品を遺していった。これからも、彼の名はいつまでも語り継がれるだろう。
家族
特に田宮五郎は容姿、言動共に父の面影を色濃く受け継いでいたが、くも膜下出血により47歳でこの世を去った。