概要
權中納言藤原光雅と藤原重方娘の子として生まれる。1206(建永元)年蔵人頭・右大弁を経て、1208(承元2)年従三位・参議に叙され公卿になった。後鳥羽院・順徳院の院司を務め、妻の経子・娘の満子は共に順徳院の乳母になっている。承久の乱では、北条義時追討の院宣の奉者となり、乱後その咎え六波羅探題に逮捕され、鎌倉への移送中に出家し、駿河国で御家人武田信光に斬首された。
『吾妻鏡』では光親の人物像は良く描かれており、同じく捕らえられた同僚の助命が叶ったと知り心から喜んだほど清廉潔白な性格だったという。また結果的に後鳥羽院の院宣を執筆しているが、彼自身は上皇の倒幕計画の無謀さを幾度も諫言しており、結局聞き入れられることは無かったともいう。北条泰時も彼の死後に上皇を諌めるために執筆した文書を目にして酷く悔やんだという。
ただし、院宣の執筆行為と伝奏として院宣発給の事実を太政官に連絡し、それを元にして太政官においても義時追討の官宣旨が作成されていることから、公家の中でも最も重い罪に問われたと考えられている。
このように後鳥羽院政のスケープゴートとして散った結構可哀想に思われる人。因みに大日本帝国時代の日本では、承久の乱や南北朝動乱で朝廷側に忠義を尽くして死んだと評価された武士や貴族が、位階を追贈される事があったが、光親も1928(昭和3)年、従一位を贈賞されている。
参考:『国史大事典』『鎌倉・室町人名辞典』『日本大百科全書』
余談
静岡県御殿場市の藍澤五卿神社では、光親を含め、一緒に承久の乱で処刑された藤原範茂・一条信能・源有雅・葉室宗行を祀っている。また、彼が処刑された甲斐の加古坂を越えた先にある静岡県駿東郡小山町須走に光親の墓がある。
息子に、鎌倉にしばしば下って将軍宗尊親王の和歌の師範を務めた歌人・葉室光俊や、後嵯峨院政で重用され院評定衆・伝奏を務めた葉室定嗣がいる。