概要
平安時代中期の人物。父は藤原為時、姉は紫式部。一説には紫式部の兄とも言われる。
生没年は974年(天延2年)〜1011年(寛弘8年)。
概略
一条朝にて、文章生を経て、長保6年(1004年)ごろから寛弘2年(1005年)ごろまで少内記を務める。その後、兵部丞・式部丞を歴任する傍らで六位蔵人を兼ね、一条朝末の寛弘8年(1011年)に従五位下に叙せられた。
叙爵後は散位となり、越後守に任じられた父・為時に従って越後国に赴くが現地で早世。享年38歳。
玄孫に藤原道長直系の子孫である藤原忠通・近衛基実父子の家司を務め平清盛との関係が深い藤原邦綱がいる。その娘の一人は甲斐源氏一族の小笠原長清の妻となり鎌倉幕府二代将軍・源頼家の近習を務めた長経の生母となった。このため長経の子孫である小笠原貞宗や三好四兄弟らは女系子孫に当たる。
歌人として
姉の紫式部が源氏物語や紫式部日記の作者として知られ、二人の逸話としてよく知られるものに、紫式部の方が惟規よりも物覚えが良かった為、父は紫式部が男であれば良かったのに、嘆息したと言うものがある。
その逸話の為にやや隠れがちだが、歌人としては当時から高く評価されており、勅撰歌人として『後拾遺和歌集』にて三首の和歌が収録され、これ以後も勅撰和歌集に和歌作品十首が採録されるなど、姉に及ばないだけで高い文才があった。
本人の歌集として、『藤原惟規集』がある。