概要
袴田巌(はかまだいわお・1936年3月10日 - )とは、日本の元プロボクサー・元死刑囚である。
「袴田事件」の犯人とされ、42年間に渡って拘置されていた。
経歴
静岡県浜松市西区出身。中学卒業後にボクシングを始め、アマチュアでの戦績は15戦8勝7敗、うちノックアウト7。
1957年、静岡国体に成年バンタム級に出場。
プロボクサーを志し、1959年に上京。某クラブに入門後、同年11月にプロデビューを果たす。戦績は29戦16勝(1KO)10敗3分で最高位は全日本フェザー級6位。
結婚して息子を授かるも、仕事は上手くいかず妻には逃げられてしまう。
以降は再起を期しつつ、静岡市内の某有限会社に就職。
しかし、ここから悲劇が始まってしまう。
袴田事件
1966年6月30日、同社専務宅で後に「袴田事件」と呼ばれる強盗放火殺人事件が発生。専務一家4人が刺殺、37万円の集金袋が奪われた上、この民家が放火された。
同年8月18日、当時30歳であった袴田は容疑者として静岡県警に逮捕された。巨漢で柔道有段者である専務と格闘できる人間として、元ボクサーである彼が疑われたのが逮捕に至った理由である。
取調では当初から無実を主張したが、あろうことか8月の猛暑の中で日曜も休まず、連日平均12時間 - 長い日は16時間50分に渡って警察による取調が行なわれた。
疲労・睡眠不足に加え、取調中には水すら与えられず、自由にトイレにも行けず、時には激しい暴力をふるわれて精神的・肉体的拷問が繰返され、自白を強要されて調書を取られた。
現代では到底あり得ないことが当時起こっていたのである。
翌67年8月31日、味噌製造工場内にある味噌1号タンク内より従業員が血染めの「5点の衣類」を発見。
この衣類には袴田と一致する「B型血液」が付着していたとされ、有罪判決における唯一ともいえる「物証」となった。
袴田は裁判において一貫して無罪を主張したが、1968年9月11日、静岡地裁が死刑を宣告。勿論弁護側は控訴したが、1976年5月18日、東京高裁が控訴棄却。そして1980年12月12日、最高裁判所で刑が確定してしまった。
収監
その後、長きに渡って彼は死刑囚として収監されていた。
2003年3月10日、当時衆院議員であった保坂展人氏や弁護団と面会した際には、「国を相手に勝訴し、5億円の賠償金を手に入れたと思い込む」「『袴田巌』を吸収(?)した『全能の神』を自称する」「姉を偽者として疑う」等の拘禁症状が見られたとのこと。
釈放
2度に渡る再審請求の末、2014年3月27日、静岡地裁が再審開始・死刑及び拘置執行停止を決定。東京拘置所から47年7ヶ月振りに釈放された。
釈放理由については、同年の第2次請求審において、犯人が着ていたとされたシャツについた血液のDNA型が「袴田元被告と一致しない」との鑑定結果が発表され、唯一ともいえる「物証」が否定されたことが決め手となったため。
そもそも証拠とされた衣服もサイズが全く合っておらず、ズボンに至っては腿の部分までしか穿けないという有様だった。
その後は入院を通し、長年の拘置所生活による拘禁反応症状などの治療を受け、48年振りとなる同年5月27日、ようやく故郷・浜松市に帰還。地元病院でさらに治療を受けた後、7月に退院。姉宅で静かな生活を送る様になった。
再審開始
しかし、釈放されたとは言え、名義上では死刑囚。汚名を晴らす為の戦いは続いた。
静岡地検は2014年3月31日、再審開始決定について東京高裁に即時抗告。
2018年、1度同高裁が再審開始を認めない決定を出したが、拘置執行停止取消は免れた。それに対抗して弁護側が特別抗告し、最高裁は2020年、高裁の決定を取消・差し戻した。
遂に出た無罪判決
それから4年後の2024年9月26日、静岡地裁において行われた再審で遂に無罪判決が下された。死刑確定者に対する再審による無罪は、島田事件以来35年振りであり、WW2終戦より5例目となった。
判決において、「5点の衣類」の共布と血痕の他、唯一証拠採用された検察官調書等全てが「捜査機関によって捏造されたもの」と断定された。
これに対して最高検察庁の畝本直美検事総長は「間違いなく袴田が犯人なのに無罪なのは遺憾。とはいえこれ以上犯罪も起こせないだろうから控訴しない」という前代未聞の暴言を言い放った。
これに対し、静岡県警察本部はコメントを発表し「袴田さんが長きにわたって法的地位が不安定な状況に置かれてきたことについて申し訳なく思っています」と語った。
これに伴い、法律に基づいて刑事補償金が政府から支給されることとなった(1日当たり1万2,500円×365日×収監期間48年分の計算となり、約2億1,900万円前後)。