略歴
1967年、東京電機大学工学部卒業後に音響メーカー『タクト』(現在は倒産)に就職するも、技術的な方面で理解のない会社であったため1年で退社。
その後、タクト時代の先輩に誘われて、その転職先である『タイトー(当時は太東貿易)』の子会社だった『パシフィック工業』に再就職する。
1年ほど組み立てと検査の部署に在籍し、1970年に生産技術へ転属となりエレメカ「スカイファイター」の開発に携わる。
1972年にAtariから発売されたビデオゲーム「ポン」を解析すると、翌1973年に「サッカー」を開発。これが日本で初めて開発されたビデオゲームとなる。
1974年、日本初のビデオゲームによるレースゲーム「スピードレース」を開発しヒットさせる。
1976年にAtariが販売した「ブレイクアウト(ブロック崩し)」を解析し、CPUやプログラミングへの理解を深める。またブレイクアウトへシューティングゲームの要素を加えるという発想から、自らで開発ツールを作りつつ、1978年に「スペースインベーダー」を開発。営業サイドの「売れない」という思惑に反して、社会現象化するほど世界中で大ヒットとなり、日本では100円玉が市場から枯渇し、日本銀行が急遽普段の月の3倍を市場へ流通させるほどであった。
1979年には「スペースインベーダーPART-Ⅱ」を開発。これが世界で初めてネームレジストを導入したゲームとされる。
また、1980年に販売された「バルーンボンバー」は、プレイ中にBGMが流れる史上初のビデオゲームとされる。
1979年に開発部の課長に就任。それから間もなくの1981年に未来研究開発の課長に就任。1984年にパシフィック工業がタイトーに吸収され「タイトー中央研究所」になるとアーケード開発部の課長になるも、1986年に再び未来研究開発の課長に戻った。
それも束の間、1988年にCP部(家庭用ゲームの開発部門)の課長に就任。更に1991年に捗外課の課長に転属(この頃、社長のミハイル・コーガンの急逝や、京セラの資本参加で子会社になった他、その影響による開発部と営業サイドの確執の肥大化などタイトー自体が錯雑としていた時期でもある)。
1995年にCP部の部長に就任。
翌1996年に非常勤技術顧問を務める傍ら『有限会社ドリームス』を設立し取締役および会長を務めた後に退社。一時的にゲーム開発より遠ざかっていたものの、三部幸治氏(現・タイトー執行役員)に誘われる形で、タイトーのアミューズメント開発部アドバイザーに就任。