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ミハイル・コーガン

みはいるこーがん

ミハイル・コーガン(もしくはミハエル・コーガン)はゲーム会社「タイトー」の創業者であるユダヤ系ウクライナ人の実業家。
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略年表

1920年1月1日、ウクライナのオデッサに生まれる。1932年にロシア革命の混乱を避け満州のハルビン市に移住した際、ユダヤ人保護に尽力する大連特務機関長・安江仙弘陸軍大佐に感銘を受けて親日家となる。


1939年に初来日し早稲田経済学院に学ぶ。その際に空手も習っていたという。1944年に天津で貿易商を営み、1950年に再来日。

戦後間もない日本を娯楽で元気にしたいとの思いから、1953年に「太東貿易」を創業し、ジュークボックスの輸入販売を始めた。並行して日本初のウォッカ『トロイカ』を醸造・販売し、ピーナッツベンダーを製造・販売、更にピンボールのリースも開始した。


1960年、大阪上本町駅前に直営のゲームセンター1号店をオープンさせる。また自社によるゲーム開発事業を開始すべく、1965年に「パシフィック工業(後にタイトーに吸収され、タイトー中央研究所に)」を設立した。


1972年に太東貿易から「株式会社タイトー」に社名変更する。1973年、アタリ社のビデオゲームPONG」のコピーゲーム「エレポン」を発売し、同年に日本初のビデオゲーム『サッカー』を開発・販売、ビデオゲーム事業にも乗り出すと、1978年にスペースインベーダーを販売し日本国内外に一大ブームを巻き起こした。


1984年2月5日、アメリカロサンゼルス出張中に急逝。享年65。

ロサンゼルスのユダヤ人共同墓地に眠る。


その他

  • 日本に長く滞在していたため日本語はペラペラだったという(6ヶ国語を話せ、20ヶ国語を読めたとのこと)。
  • 1950年に安江仙弘が亡くなった際(抑留先であるロシア・ハバロフスク収容所で死亡)、まだ葬式を済ませていない安江の家族へ、「極東のユダヤ人たちの恩返しの気持ちだから、こちらで金を出すから葬式を出してくれ」と頼み、青山斎場で慰霊祭が執り行われたという。
  • 1968年、「池袋ロサ会館」が営業不振に陥った際、紹介された現オーナーである伊部季顕氏(当時のロサ会館社長の御子息)へ1Fにゲームセンターを作ることで華やかさを出してはどうかと提言、その経営立て直しに一役買った。
  • 1983年、「アイレム」を退社し、またインベーダーブームの終焉により借金が10億円あった辻本憲三氏に、「お金を出すからビジネスをやってみないか」と提言し、創業資金として1億5千万円を貸している。その資金で創業されたのが「カプコン」である。辻本氏曰く、借りた資金は5年間で返済するつもりであったそうだが、半年後にコーガン氏が急逝したことから8ヶ月で返済したという。
  • タイトー直営ゲームセンターのゲーム用メダルには、コーガン氏の顔が刻印されている
  • 1993年にタイトーが株式上場する際、妻であるアシャー・コーガンさん(2013年逝去)は自身の持ち株をタイトー社員全員に無償で分配譲渡している。

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