阿波(徳島県)の風習である「遊山(ゆさん)」に用いられる、専用の弁当箱の事。
他地域の人々のためにぶっちゃけると「遊山」とは要は遠足(現在は遠出、旅行も含む)の事である。(ただし徳島ではこれらと「遊山」は一応、独特のものとして区別されるが)
いわゆる「物見遊山」の「遊山」であり、源意は仏教(修験道)の行者(修行者)が「息抜きのために山、すなわち修行場=寺の周りを修行抜きでぶらつく(散歩する)」こと。
基本的には手提げができる漆器の外箱がついた、三段重の弁当箱(重箱)。
概説
徳島では旧暦の春の節句(雛祭り)において子供たちが遊山箱にご馳走を詰めてもらい「遊山」を楽しむという風習があった。
ひな祭りは一般的に女の子の祭りだが、徳島では旧暦の春節句(4月3日)は男の子も女の子も一緒に、遊山箱にご馳走を詰めて「遊山やま」にて弁当を広げて遊んだ。
徳島ではこれを「遊山する」と言い、遊山するための弁当箱で「遊山箱」と呼ばれている。
遊山と農習慣
「遊山は春の農始め」と言われ、お米作りと深い関わりがあると言われる。
「遊山やま」には神様がいて、遊山やまと里を行き来して遊ぶ子供達について田の神様が里に降りてきて「田おこし」が始まるという大切な節句の習わしだった。
つまり「遊山」とは農作業の始まりを告げる行事であるともいえ「農業の大事な担い手でもある子どもたちを、遊ばせることができない多忙の前に遊ばせる」行事とも言える。
地域により遊び方がそれぞれ違っていて、海辺の子は浜に、川辺の子は堤防に、城下町では眉山や、お友達のお雛様の前にて遊山箱を広げたと言われる。
遊山と遊山箱の衰退
しかし昭和の中頃にはその風習は廃れる事となる。
その頃には太平洋戦争の終戦に伴う前後民主主義と高度経済成長期への価値観の転換による、農業への配慮が打ち捨てられた全国一律義務教育や児童労働を禁じる近現代児童福祉概念の登場と普及が進んだ。
のみならず昭和30年代以降は農業の機械化が進み、農業にわざわざ子どもの手を借りるような事もなくなり、さらに子どもへの教育熱も加速し進学率も上がり、子どもが農業(家業)に携わる事そのものがなくなった。
そうすると「子どもを農繁時の労働前に休ませる」意義が形骸化していった。単に形骸化するだけならばいざ知らず、四国の中でも特に関西に近い(むしろ人によっては自分たちは関西地方だと主張する)徳島は、都会(神戸・大阪・京都)を意識するが故に進学意識もより強くなっていったため、都会同様の進学を意識する親にとってみれば「遊山」など子どもの将来(を意識した受験勉強)の敵でしかなくなった。かくて子どもの遊山は無意味なものとなり衰退していった。
こうして訪れた遊山の衰退とともに、当然の事ながら遊山箱も姿を消した。
現在の遊山と遊山箱
しかし、かつて遊山を楽しんだ世代(おおよそ団塊の世代・しらけ世代)が定年を迎えて年金暮らしをするようになると「子ども時代を懐かしむ」意味で遊山に注目をするようになった。
それに注目した徳島の小さな漆器店が全国の木工所に足を運び遊山箱を復刻させて現在に至る。
昔は子供用だったが、現在は上述した世代のノスタルジー需要もあって大人向けにも作られており、用途もお弁当箱だけではなく、小物入れやインテリアとしても使われている。
そしてJR四国が土讃線で走らせる観光列車「四国まんなか千年ものがたり」はおとなの遊山をメインコンセプトとしており、ツアー(上り線)に付属する列車弁当に「大人の遊山箱」の名を冠している。
なので近年において徳島県外の一般人が、あるいは徳島県民であっても若年層の人々が、「遊山箱」と聞いて真っ先に思い付くのは、このJR四国による「大人の遊山箱」だったりする。
時に伴う価値観の推移、少子化などの社会動勢の転換に伴い、子ども(家庭)のものだった遊山箱も、結局は「大人のための贅沢品」になってしまったのも、また現在の実情と言えなくもない。