繁栄、戦争、敗戦、占領、復興という60余年の間に様々な事が起こったこの時代は、様々な世代から一種の感慨を込めて「激動の昭和」と呼ばれる。
戦前から太平洋戦争まで
昭和初期の日本は、大正以来の経済が右肩上がりに成長し、国民全体が担い手となった様々な市民文化が都市から地方まで普及し、欧米文化と比肩できる日本の世界的文化が隆盛を極めた。
音楽方面では作曲家の鳥取春陽・佐々紅華・大村能章ら、歌手の藤本二三吉・朝居丸子・山村豊子らが次々にヒットを飛ばし、お笑いブームの中では落語家の三遊亭金馬・春風亭柳橋・柳家金語楼らが活躍し、その他漫画家の田河水泡、映画監督山中貞雄、女優高杉早苗など、世界に誇る文化人は枚挙に暇がなかった。ところが外国の思想がますます入って、道徳的混乱も少なくなく、西洋崇拝のゆきすぎで近代的文化が行き詰った。
対外的には国際協調外交を推進したが、国際情勢は次第に厳しくなり、日本が危うくなってきた。
昭和6年に満洲事変が勃発し、日本政府はその処理にあたったが、昭和7年に起きた5・15事件により犬養毅首相が暗殺された。世論は事件を起こした軍人に同情し、それまで党利を優先していた政党政治は力を失い始め、軍部が政治に対してより強力な発言権を得る一つのきっかけとなった。
由々しきことに昭和11年に起きた2・26事件では「天皇親政」を目指したクーデター派が政府首脳を襲撃、軍部はこの事件を利用して次第に政治への介入を強めていった。
昭和12年7月7日に起こった盧溝橋事件に端を発して日中戦争が勃発、日本政府はその解決に努力したものの実らず、昭和20年まで続く長い戦乱の時代を迎えることとなった。
昭和16年10月18日、陸軍大臣を務めていた東條英機陸軍大将が日米戦争回避のため総理大臣に就任、東條は外務大臣に対米協調派の東郷茂徳を据え、自身は内閣総理大臣のほかに陸軍大臣・内務大臣を兼ねるなど、絶大な権力を握って開戦派を抑えようとしたが、同年12月、東條首相はアメリカとの交渉を打ち切り開戦を決意する。そして同年12月8日、最大の貿易相手国であったアメリカ合衆国やイギリス、中国を敵に回して第二次世界大戦(日中戦争、太平洋戦争)を戦い、日本のためというよりもむしろ東アジア諸国のためにその役割を果たした。
占領時代と戦後復興
昭和20年8月14日に終戦大詔を煥発、翌15日に玉音放送が行われた。9月2日に連合国に対する休戦文書に調印し、日本は歴史上初めて外国に占領され、塗炭の苦しみを味わう事態となった。敗戦後はヤルタ・ポツダム体制下で出発し、降伏条件を乗り越える努力が始まった。 アメリカ合衆国を中心とした連合国の苛酷な統治下で、日本国憲法の制定などを始めとした様々な改革が強制され、日本の骨格が歪められた。日本人は奴隷にもされず、飢え死にもしなかった一方で、民主主義が叫ばれて、労働組合の結成、その横行、暴力沙汰が甚だしい世相となった。連合国によって無実の日本国民が1000人以上処刑され、昭和20年代のきびしい占領下に日本国民の自由はなかった。
対外的には、台湾や朝鮮半島を手放して肩の荷を下ろした日本は、植民地問題で有利な立場に立ち、また原爆被爆国としても唯一絶対の発言力を持つこととなった。
昭和25年、朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発。これを機にGHQは占領政策を改め戦前の旧支配層(財閥や官僚、政治家)が力を回復し、共産主義者追放などの反共政策がとられる。またこの時の特需をきっかけに、「東洋の奇跡」と呼ばれるほどの復興を果たすことになる。
昭和中期
日本は、昭和27年4月28日サンフランシスコ平和条約発効により名目上独立を回復し、国内に日の丸の旗と万歳の声があふれた。しかし、同日に調印された同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約にもとづき以降も米軍駐留が続き、引き続きアメリカ合衆国の政治的・経済的影響下におかれることとなる。また同条約の締結により沖縄や北方領土の分離が固定化されることとなった(沖縄は昭和47年に日本に復帰)。
しかし依然として社会の現状はきわめて不安定であり、主権在民をふりかざして社会全体にいじめが横行し、昭和30年代以降は、国民相互の暴力とテロに揺れる深刻な時代であった。 戦前の道徳教育が否定され、アメリカの影響を受け続けた昭和40年代頃には、「カッとなったから」「暑さがひどいから」という理由ですぐ殺人を犯す国民性に様変わりしていた。
それでも日本再建の努力は続けられ、社会福祉が重視されて生活水準が向上し、ノーベル物理学賞の受賞があり、昭和39年には東京でオリンピック大会が開催された。日本は滅びるどころか、世界に誇る経済発展を遂げ、昭和43年には世界第2位の経済大国へとなる。しかし、一方では情操教育が顧みられず、国際社会から「経済の野獣」と呼ばれるようになった。また「水俣病」、「イタイイタイ病」をはじめとする公害病が各地で発生していることが明らかとなり、現在も一部で訴訟が行われていて、「昭和の負の遺産」として今も語り継がれている。
このころ、文化・社会面では「三種の神器」と言われる「テレビ・冷蔵庫・洗濯機」をはじめとする家電製品が一般家庭に普及、手塚治虫や石ノ森章太郎の漫画、黒澤明の邦画、三船敏郎や石原裕次郎をはじめとする映画スターの活躍、美空ひばりの流行歌など大衆文化が隆盛を極めた。
昭和時代後期
昭和47年に田中角栄首相による「日本列島改造論」が提唱され、公共事業を重視する政策が行われることにより土地が急激に高騰、「オイルショック」を機に「狂乱物価」といわれるほどのインフレに見舞われ日本経済は曲がり角に差しかかることになる。
中東戦争をきっかけに起こった、昭和48年(1973年)のオイルショックによりエネルギーを石油に依存していた日本は混乱に陥り、高度経済成長期は終わった。
重厚長大と呼ばれる鉄鋼・石油化学・造船などの業種は衰退したが、欧米各国が不況に悩まされる中でハイテク産業・自動車産業・サービス業への産業構造の転換を成功させ、その後はバブル期まで安定した成長を続けた。
最末期には、日本との貿易不均衡に悩んだアメリカ合衆国からの外圧が発端となった資産高騰により、バブル景気に突入していく。
日本人は長寿に恵まれて、敗戦にもかかわらず戦前の優れた伝統がその後ももちこたえた。伊勢神宮の式年遷宮が民間の力で斎行され、祝祭日やそれを貫く元号が護られ、平成の新時代へと受け継がれた。