ビワハヤヒデ
びわはやひで
ファン投票で集まった14万8768の期待。
その馬にとっては重圧ではなく、自信だった。
愛されるから強いのか、あるいはその逆か。
5馬身差の余裕。ビワハヤヒデ。
真の強さはスリルすら拒む。
灼熱のグランプリへ、宝塚記念。
※現役時代の馬齢およびレース名は旧表記で記述。
※当馬をモデルとするウマ娘については、「ビワハヤヒデ(ウマ娘)」の記事を参照。
経歴
父は外国馬のシャルード。母はパシフィカス。母の父はノーザンダンサーという血統。
三冠馬ナリタブライアンは母を同じくする1歳下の弟(父はブライアンズタイム)で、サラブレッドとしては珍しい福島県生まれである。
2歳の秋に牧場の柵にぶつかり、折れた木が足に刺さる事故に遭う。幸いにも競走能力には影響は出なかったが、一歩間違えば予後不良になりかねなかったほどで、その傷跡は現役時代にも幾度か影響した。
3歳春に栗東]トレーニングセンターの浜田光正厩舎に入厩した。
馬名は、冠名の「ビワ」と「速さに秀でる」から「ビワハヤヒデ」と付けられた。(他に「早田牧場の秀才」にも掛けている)
1992年(3歳)
1992年9月の阪神競馬場で行われた新馬戦でデビュー。鞍上は岸滋彦。
新馬戦を10馬身以上の大差で圧勝し、続くもみじステークスもレコードを叩き出す圧勝。
3戦目は初めての重賞となるデイリー杯3歳ステークス(GⅡ)だったが、ここも危なげなく勝利しデビューから3連勝。
翌年のクラシックの最有力と目されるようになる。
1993年(4歳)
共同通信杯 ~岸から岡部へ~
4歳シーズンの初戦は共同通信杯(GⅢ)。前走の朝日杯で敗れたにも関わらず圧倒的な1番人気に推されるも、マイネルリマークを捕らえることが出来ず2着。
このレースの後、騎手が岸滋彦から名手・岡部幸雄に代わることとなった。
次走の皐月賞トライアル・若葉ステークスは単勝1.3倍の圧倒的人気に応える勝利。
当初岡部はビワハヤヒデに乗るのは1回限りと考えていたが、結局引退までコンビを組むこととなった。
皐月賞 ~三強揃う~
皐月賞(GⅠ)では弥生賞(GⅡ)を勝利したウイニングチケット(柴田政人騎乗)に次ぐ2番人気だった。
レースは最後の直線で伸びが苦しいウイニングチケットを尻目に逃げ切りを図ったが、外から大きく伸びてきたナリタタイシン(武豊騎乗)にゴール直前で差され、2着に敗れた。
このナリタタイシンの勝利により、3頭は「新・平成三強」または3頭の頭文字を取り「BNW」と呼ばれるようになる。
日本ダービー ~熱狂の2分25秒~
第60回東京優駿(日本ダービー)(GⅠ)では、1番人気にウイニングチケット(3.6倍)、2番人気にビワハヤヒデ(3.9倍)、3番人気にナリタタイシン(4.0倍)と完全に三強ムードが漂っていた。
最後の直線では3頭の勝負となったが、柴田政人の執念が乗り移ったウイニングチケットに敗れてまたしても2着に終わった。
春シーズンは惜敗続きとなってしまったビワハヤヒデの夏は、栗東TCで鍛え直すこととなった。
前年の二冠馬ミホノブルボンに倣って、徹底的な坂路調教が課されたことで、ビワハヤヒデは一回り逞しくなった。また、岡部は今まで付けていたメンコを外すことを提案した。
秋シーズン初戦となった神戸新聞杯(GⅡ)は、後の天皇賞馬ネーハイシーザーを抑えて勝利し、最後の三冠レース・菊花賞に駒を進めた。
菊花賞 ~菊の舞台で無念を晴らす~
ナリタタイシンが肺出血の影響で本調子でない中、ウイニングチケットとビワハヤヒデの一騎打ちの様相となった。
最終コーナー前で先頭に立つと、後続を5馬身突き放す圧勝で、念願のGⅠタイトルを手に入れた。
2着は後にステイヤーズステークス(GⅡ)を制するステージチャンプで、ウイニングチケットは3着。
ナリタタイシンは最下位かと思われたが、ネーハイシーザーがレース中に心房細動を起こしたことで、最下位は免れた。
有馬記念 ~帝王との対決~
年末の第38回有馬記念は14頭中8頭がGⅠ馬という錚々たる顔触れが揃った。
4歳組はビワハヤヒデとウイニングチケットの他に、桜花賞と優駿牝馬(オークス)の二冠を獲った牝馬ベガ、朝日杯でビワハヤヒデに勝ったエルウェーウィンがいた。
迎え撃つ古馬達も、前年優勝馬のメジロパーマー、ミホノブルボンとメジロマックイーンの快挙を阻んだライスシャワー、当年のジャパンカップを制したせん馬レガシーワールド、そして「皇帝」シンボリルドルフの息子で前年の有馬記念以来、実に1年ぶりの出走となるトウカイテイオーがいた。
初めて古馬と戦うビワハヤヒデは、これまでのレースがすべて2着以内という安定感を買われて1番人気に推された。
最後の直線で先頭に立ったが、残り200mのところでトウカイテイオーに追い抜かされ2着。「奇跡の復活」の引き立て役となってしまった。
なお、トウカイテイオーは前年には岡部が騎乗しており、岡部は元相棒に敗れる形となったが「テイオーなら仕方ない。勝ったのがテイオーで良かった。」というコメントを残した。
全成績が2着以内という安定感が評価され、安田記念を連覇し天皇賞(秋)を制したヤマニンゼファーを抑えて、ビワハヤヒデは年度代表馬に選ばれた。
1994年(5歳)
古馬となったビワハヤヒデは、ナリタタイシン・ウイニングチケットを圧倒していく。
さらに弟ナリタブライアンも前年に朝日杯を優勝し、三冠への道を邁進して行く。
初戦の京都記念(GⅡ)は7馬身差をつける圧勝劇を見せた。
天皇賞(春) ~兄貴も強い!~
この年の天皇賞(春)は本来の京都競馬場が改修工事のため、阪神競馬場で代替開催された。
レースは最後の直線で一気に先頭に立つと、追い縋るナリタタイシンを振り切りGⅠ2勝目を飾る。
実況を担当した杉本清は、「弟ばかりを注目するマスコミに対して、兄貴だって強いんだぞという気持ちが出た。」と語っている。
宝塚記念 ~5馬身差の余裕~
春のグランプリ・宝塚記念でも圧倒的な1番人気に推されたビワハヤヒデは、涼しい顔をしてアイルトンシンボリに5馬身差を付ける圧勝でGⅠ3勝目を飾った。
当年の日本ダービーを制したナリタブライアンとの兄弟対決を見たいという風潮は、日増しに強くなっていった。
秋初戦となるオールカマー(GⅢ、翌年よりGⅡ)はウイニングチケットと半年ぶりに対決となったが、これも勝利し、デビューからの連対記録を15に伸ばした。
天皇賞(秋) ~府中に潜む魔物~
秋の天皇賞も1番人気で迎えたビワハヤヒデ。しかし、岡部は動きにキレがないことを直感した。
その懸念通り、レース中に屈腱炎を発症してしまい、一度も先頭に立つことなく、ネーハイシーザーの5着に敗れた。
この結果、デビュー以来の連対記録がついに15で止まってしまった。
勝ったネーハイシーザーは菊花賞で最下位だった馬であり、結果的に引導を渡される形となった。
当時、天皇賞(秋)は1番人気が勝てないというジンクスで有名だった。
かのシンボリルドルフはギャロップダイナの強襲に屈し(1985年)、メジロマックイーンは1着からまさかの最下位に降着(1991年)、後のサイレンススズカに至っては故障を発生し予後不良となった(1998年)。そしてビワハヤヒデもこのジンクスに飲まれてしまうこととなった。
天皇賞から3日後の11月2日に、同じく天皇賞で屈腱炎を発症し8着に終わったウイニングチケットと共に引退することが発表された。
これにより、ナリタブライアンとの兄弟対決は実現しないままに終わってしまった。
そして、その4日後の菊花賞でナリタブライアンが勝利し、シンボリルドルフ以来10年ぶり、平成になって初めての三冠馬となった。
この菊花賞で杉本清は「弟は大丈夫だ!」と何度も連呼した。
春の活躍が評価され、最優秀5歳以上牡馬に選ばれた。
引退後
引退後は種牡馬となるも、目立った産駒を出せず2005年に種牡馬を引退。以後は功労馬として日西牧場にて余生を送っている。