インド
いんど
インド亜大陸
インド共和国のほか、パキスタン・バングラデシュなどを含む陸域。かつては独立した大陸であったが約6500万年前にユーラシア大陸に衝突し合体。これにより衝突場所付近にヒマラヤ山脈とチベット高原が形成された。
「インドア大陸」じゃないぞ。
インド共和国
インド亜大陸を主な領域とする連邦制共和国。1947年にイギリスより独立した。
人口は世界第2位(約12億人)、面積は世界第7位(約328万平方km)。多数の民族、言語、宗教から構成される。多数派のヒンドゥー教の教義に根ざしたカースト制度という身分制度により、かつては身分差別が酷かったが、現在カースト差別は憲法で禁止され、都市部ではカーストの意識も曖昧になってきており、ヒンドゥー教徒ながらも自分の属するカーストを知らない人すらもいる。
しかし、農村部ではまだカーストの意識が根強く残っており、その意識は北インドよりも南インドの方が強い。そのためアチュート(不可触民)の人々に、ヒンドゥー教から抜け出したり、他の宗教に改宗(仏教などへ)を勧める運動も行われている。
最近はIT産業が急成長しているが、これもインド人が数理的才能に秀でているという理由と(現在に於いてもいわゆる九九のような掛け算の暗唱は9×9ではなく20×20までやっている)事実上の共通語として今も英語が通用しITへの親和性が非常に高かったこと、ITは新しい産業なのでカースト制度の影響を受けないということから。国内の貧富格差や、人口増加に伴う環境破壊も大問題となっている。
映画も盛んで、制作本数は世界一と言われている。ムンバイ(旧英語名ボンベイ)が中心地で、ハリウッドになぞらえて「ボリウッド」として有名である。
特に大量のダンサーが歌い踊るミュージカル仕立ての映画が多数あり※
日本でもニコニコ動画などでのMAD製作の材料として多用されている。
2014年には、日本の安倍晋三首相と非常に友好的で、親日家としても有名なナレンドラ・モディ氏が首相に当選し、インドの日本との関係がさらに深化している。
※但しこうした仕立ての結果ドラマなんかでは「殺人現場で踊るなー!」(西原理恵子談)という事もある。
経済
詳細
インドは独立以来、輸入代替工業化政策を進めてきたが、1991年の外貨危機を契機として経済自由化路線に転換し、規制緩和、外資積極活用等を柱とした経済改革政策を断行。2005年度~2011年度は8.4%まで回復した。2009年5月に発足した第二次マンモハン・シン政権は社会的弱者救済等の基本政策に基づいて農村開発や貧困対策、インフレ対策や汚職対策に取り組むとともに、インフラ整備を通じた更なる経済開発を目指している。
日インド両国は1952年に国交を樹立、友好関係を維持してきた。2000年8月の森総理訪印の際に「日印グローバル・パートナーシップ」構築に合意。その後、2005年4月の小泉総理訪印以降、「日印戦略的グローバルパートナーシップ」に格上げされ、毎年交互に首脳が相手国を訪問し、年次首脳会談を実施。2011年12月には野田総理がインドにを訪問し、「国交樹立60周年を迎える日インド戦略的グローバル・パートナーシップの強化に向けたビジョン」と題する共同声明を発出した。
インド新幹線
2015年12月12日におけるインドのナレンドラ・モディ首相と日本の安倍晋三首相の会談において、インド軍と日本国自衛隊との防衛装備協力の推進などの安全保障協力や、経済協力の具体化、文化・人的交流の強化について協議し、インド西部のムンバイからアーメダバード間を結ぶ、高速鉄道計画における、日本の新幹線システム導入で合意したことを受けて、「日印新時代の幕開けにふさわしいプロジェクトだ。他の高速鉄道路線にも導入されることを期待する」と述べられている。
原子力協定
上述の会談では、平和的目的に限定する条件のもと、日本からの原発技術供与を可能にする日印原子力協定も締結され、核拡散防止条約(NPT)非加盟国であるインドと、日本の歴史上初めて原子力協定を結ぶこととなり、安倍首相は「日本による協力を平和目的に限定する内容を確保した」と評価しており、モディ首相も「両国の戦略的パートナーシップの新たなレベルを示すシンボルだ」と語っている。
歴史
インド共和国としての歴史は、イギリスの植民地支配から脱して独立した後となる。そのためここでは独立とそこまでの経緯を記す。
第二次世界大戦においては第一次大戦時と同じくイギリス領インド帝国は再び連合国として参戦したが、国内の諮問機関たるインド国民会議派はこれに対して非協力的であった。その頃、国民会議派から決裂したビハリ・ボースとスバス・チャンドラ・ボースらを始めとする一派は、マレー作戦で英国軍を連戦連勝で打ち破り、難攻不落の要塞といわれたシンガポールを陥落させた日本の支援を受けてインド国民軍を結成するなど、枢軸国に協力して独立をめざす動きも存在した。マニプルにおけるウ号作戦を始め、インド国民軍は日本軍とともに多くの戦闘を戦い抜いた。
しかし、独立の決定打と目論んで行われたインパール作戦は惜しくも失敗に終わり、これをきっかけにその後のイギリス軍との戦いでもインド国民軍と日本軍は敗北を重ねてしまう。そしてアウン・サン率いるビルマ国軍が日本軍から離反すると、インド国民軍は日本軍と共にビルマからタイに撤退。そこで第二次世界大戦の終戦を迎え、インド国民軍はイギリス軍に降伏した。
だが、戦後においてイギリスの総選挙で誕生したアトリー内閣が、インド国民軍の将兵たちを国王に対する反逆罪で裁判にかけたが、これが大きな反発を呼び各地で暴動が勃発。1946年8月16日、ムハンマド・アリー・ジンナーが直接行動の日を定めたことで『カルカッタの虐殺』事件が起こると、この暴動を受けてアトリー内閣は、イギリス本国が第二次世界大戦により国力が低下していたことを鑑みて、インドをこれ以上植民地下に置くことはできないと判断し独立を容認し、1947年にインド共和国として独立することになった。
日本との関係
日本にとって、インドは歴史的に仏教を通じて後何世紀にもわたる長く深い交流があり、文化的・思想的に最も強く影響を受けた国であり、上述の第二次大戦で協力関係であったこともあり、現在でも非常に親日的な友好国の一つである。
インドは非同盟を掲げており、基本的に他国と同盟は組まない方針でいるが、日本とは経済的・軍事的にも繋がりが深く、ほぼ同盟国状態であり、近年は安倍晋三首相とナレンドラ・モディ首相との会談で明確に準同盟国と位置付けられ、安倍首相も「日印は同盟に近い」と発言している。
詳細⇒日印友好