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昭和天皇の在位期間で元号昭和であった昭和元年(西暦1926年)12月25日から昭和64年(1989年)1月7日までの62年と2週間。

戦争、敗戦、占領、復興、繁栄という60余年の間に様々な事が起こったこの時代は、様々な世代から一種の感慨を込めて「激動の昭和」と呼ばれる。

昭和初期の日本は、大都市部に欧米の影響を受けた大衆文化(昭和モダン)が隆盛を誇っていた。

しかし昭和5年(1930年)に始まった世界恐慌によって経済が混乱。政府の無策から労働者農民貧困格差社会が広がっていた折から、飢餓や悲惨な人身売買が横行する有様となった。当時の濱口雄幸首相は緊縮政策をとり大不況を悪化させ、国内には不満が噴出、昭和6年(1931年)に右翼に暗殺される。そんな中関東軍が独断で満州事変を起こし、しかも陸軍中央及び濱口の後任の若槻禮次郎首相もこれを追認した。これは軍において現場指揮官の独断による既成事実の積み重ねを上層部が追認する前例となり、日本の政党政治が崩壊に向かっていくきっかけともなった。

経済混乱については昭和6年末に就任した犬養毅首相と高橋是清大蔵大臣の主導のもと金本位制離脱とそのほかの施策によって恐慌脱出に目処をつける事ができた。政党政治を主導していた犬養首相は、満州事変の処理にもあたったが、昭和7年(1932年)に起きた五・一五事件により暗殺、世論は事件を起こした軍人に同情し、政党政治は力を失い始め、軍部が政治に対してより強力な発言権を得る一つのきっかけとなった。

昭和11年(1936年)に起きた二・二六事件では「天皇親政」を目指したクーデター派が政府首脳を襲撃、軍部はこの事件を利用して次第に政治への介入を強めていった。

昭和12年(1937年)7月7日に海外への勢力拡大を図った関東軍が起こした盧溝橋事件に端を発し、日中戦争が勃発、日本は昭和20年(1945年)まで続く長い戦乱の時代を迎えることとなった。

昭和16年(1941年)10月18日、陸軍大臣を務めていた東條英機陸軍大将が日米戦争回避のため総理大臣に就任、東條は外務大臣に対米協調派の東郷茂徳を据え、自身は内閣総理大臣のほかに陸軍大臣内務大臣を兼ねるなど、絶大な権力を握って開戦派を抑えようとした。しかし同年12月、東條首相はアメリカとの交渉を打ち切り開戦を決意する。そして同年12月8日、最大の貿易相手国であったアメリカ合衆国やイギリス中国を敵に回して第二次世界大戦日中戦争太平洋戦争)を戦い、アジア・太平洋全域に戦域を広げたが、国力をはるかに超える無謀なものであり、昭和17年(1942年)6月5日(アメリカ日時では6月4日)から7日にかけて行われたミッドウェー海戦に大敗すると、徐々に制海権・制空権を失って敗戦への道をたどっていった。

占領時代と戦後復興

昭和20年(1945年)6月になると沖縄が陥落、7月26日には連合国側から日本政府に対してポツダム宣言が発せられたが日本政府はこれを留保、ソ連を通じた和平調停に望みをかけていた日本政府が無為に時間を費やしているうちに8月6日には広島に、9日には長崎原子爆弾が落とされ、多くの死傷者を出すこととなり、今も後遺症に苦しむ人々が出る結果となった。

8月9日には中立条約を破ってソ連が侵攻、ここにいたって調停の望みは絶たれ、8月15日にポツダム宣言を受諾すると発表。玉音放送が行われた。9月2日に連合国に対する降伏文書に調印し、日本は歴史上初めて外国に占領されるという事態となった。敗戦後はアメリカ合衆国を中心とした連合国軍の占領下で財閥解体や農地解放が行われ、日本国憲法の制定などを始めとした様々な改革が進められた。

昭和25年(1950年)、朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発。これを機にGHQは占領政策を改め戦前の旧支配層(財閥や官僚、政治家)が力を回復し、共産主義者追放などの反共政策がとられる(逆コース)。またこの時の特需をきっかけに、「東洋の奇跡」と呼ばれるほどの復興を果たした。

日本は、昭和27年(1952年)4月28日サンフランシスコ平和条約発効により名目上独立を回復した。しかし、同日に調印された同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約にもとづき以降も米軍駐留が続き、引き続きアメリカ合衆国の政治的・経済的影響下におかれることとなる。また同条約の締結により沖縄北方領土の分離が固定化されることとなった(沖縄は昭和47年(1972年)に日本に復帰)。

日本は冷戦の中で西側陣営に属し、アメリカ合衆国を主な輸出市場として経済成長を続け、昭和39年(1964年)には日本の科学技術の粋を集めた東海道新幹線が開通し、復興のシンボルともいえる「東京オリンピック」が開催された。

昭和43年(1968年)には世界第2位の経済大国となる。しかし、一方で「水俣病」、「イタイイタイ病」をはじめとする公害病が各地で発生していることが明らかとなり、現在も一部で訴訟が行われており、『昭和の負の遺産』として今も語り継がれている。

昭和時代後期

昭和47年(1972年)に田中角栄首相による「日本列島改造論」が提唱され、公共事業を重視する政策が行われることにより土地が急激に高騰。中東戦争をきっかけに起こった「オイルショック」を機に「狂乱物価」といわれるほどのインフレに見舞われ日本経済は曲がり角に差しかかることになる。

重厚長大と呼ばれる鉄鋼・石油化学・造船などの業種は衰退したが、欧米各国が不況に悩まされる中でハイテク産業・自動車産業・サービス業への産業構造の転換を成功させ、その後はバブル期まで安定した成長を続けた。

最末期には、日本との貿易不均衡に悩んだアメリカ合衆国からの外圧が発端となった資産高騰により、バブル景気に突入していく。

昭和64年(1989年)1月7日、昭和天皇が崩御し、皇太子・明仁親王が即位する。昭和64年はわずか一週間で終わり、新しく平成が始った。

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昭和史の編集履歴2019/03/04 23:38:07 版