« Soldats! La seconde guerre de la Pologne est commencée; la première s’est terminée à Friedland et à Tilsit. À Tilsit, la Russie a juré éternelle alliance à la France et guerre à l’Angleterre. Elle viole aujourd’hui ses serments! Elle ne veut donner aucune explication de son étrange conduite que les aigles françaises n’aient repassé le Rhin. La Russie est entraînée par la fatalité; ses destins doivent s’accomplir. Nous croirait-elle donc dégénérés? Ne serions-nous donc plus les soldats d’Austerlitz? Elle nous place entre le déshonneur et la guerre: le choix ne saurait être douteux. Marchons donc en avant: passons le Niémen, portons la guerre sur son territoire. La seconde guerre de la Pologne sera glorieuse aux armes françaises, comme la première; mais la paix que nous conclurons portera avec elle sa garantie, et mettra un terme à cette perpétuelle influence que la Russie a exercée depuis cinquante ans sur les affaires de l'Europe »
(兵士たちよ! 第二次ポーランド戦争が開始された。第一次は、フリートラント及びティルジットで終結した。ティルジットで、ロシアはフランスとの永久的な同盟と、イギリスに対する戦争を誓った。今日、彼等は約束を反故にしている! フランスの精鋭たちが再びライン川後方に退却するまで、ロシアはその奇妙な行動を最早弁明するまい。ロシアは自らの命運をもって、自国の運命がどのようなものか知らねばならない。我々は衰退したのか? 我々はもうアウステルリッツの兵士ではないのか? 不名誉か戦争か、我々は岐路に立っている。選択の余地はない。今から進軍しよう。ニェマン川を渡り、戦争を彼等の領土内へ持ち込もう。第二次ポーランド戦争は、第一次のように、フランス軍に栄光をもたらすだろう。だが今回我等が締結する和平条約は、過去50年間、ロシアがヨーロッパへ及ぼして来た悪影響に終止符を打つ保証を伴うものである)
(Napoléon Bonaparte, 22. Juni, 1812)
概要
「1812年祖国戦争(Отечественная война 1812 года)」、フランス側の文献では「1812年ロシア遠征(Campagne de Russie 1812)」(※1)は、ロシア帝国とフランス帝国との間で、ロシア領内で行われた戦争。
戦争の原因としては、ナポレオンが大英帝国への主要な対抗策と考えていた、大陸封鎖令への積極的な参加をロシア帝国が拒否したこと、また、ナポレオンのヨーロッパ諸国に対する政策が、ロシアの利害を無視して行われていたことが挙げられる。
戦争の第一段階(1812年6月から9月)では、ロシア軍は散発的な戦闘を交えつつ、ロシア国境からモスクワまで後退し、モスクワの近郊では「ボロヂノーの戦い」が行われた。
戦争の第二段階(1812年10月から12月)において、ナポレオン軍は当初、戦闘によって荒廃した地域での冬営を避けようとし、ロシア軍、飢餓、厳冬による追撃を受けながらロシア国境へと退却していった。
戦争は、ナポレオン軍のほぼ完全な壊滅、ロシア領の解放、そして1813年の、ワルシャワ大公国、そしてドイツ領内への戦闘の移動をもって終結した(第六次対仏大同盟)。ロシアによるナポレオン軍の敗因として、歴史家のН・А・トローイツキイは、全国民的な戦争への協力、ロシア軍のヒロイズム、そしてフランス軍の、ロシアの巨大な土地と気候条件に対する準備不足、そして総司令官М・И・クトゥーゾフほか、ロシア側の指揮官たちの天賦の才を挙げている。
※1 ロシアの公報は、戦争を「ガリア人および十二国民の襲来」と呼び表していた(アレクサーンドル1世の声明など)。
交戦勢力
主要な陣営 | 属国 | 同盟国 |
---|---|---|
フランス第一帝政 | イタリア王国、スペイン王国、ナポリ王国、ヴュルテンベルク王国、バイエルン王国、ヴェストファーレン王国、ザクセン王国、ワルシャワ大公国、ライン同盟、ヘルヴェティア共和国 | オーストリア帝国、プロイセン王国 |
ロシア帝国 |
指揮官
フランス第一帝政 | ナポレオン1世、ルイ・ニコラ・ダヴー、ジャック・マクドナル、ミシェル・ネイ、クロード・ヴィクトル=ペラン、ニコラ・ウディノ |
---|---|
イタリア王国 | ウジェーヌ・ド・ボアルネ |
ナポリ王国 | ジョアシャン・ミュラ |
ヴェストファーレン王国 | ジェローム・ボナパルト |
ワルシャワ大公国 | ユゼフ・ポニャトフスキ |
オーストリア帝国 | カール・フィリップ・ツー・シュヴァルツェンベルク |
プロイセン王国 | ルートヴィヒ・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク |
ロシア帝国 | アレクサーンドル1世、ミハイール・クトゥーゾフ、ミハイール・バルクラーイ=ド=トーリ、ピョートル・バグラチオーン(戦死)、アレクサーンドル・トルマーソフ、ピョートル・ヴィッテンシチェイン、ミハイル・ミロラードヴィチ、マトヴェーイ・プラートフ、パーヴェル・チチャーゴフ |
開戦前
ナポレオンは交戦中のイギリスを経済的に圧迫させるべく、ヨーロッパに大陸封鎖を布いていた。イギリスとの貿易に依存していたロシア貴族層や商人は、ひそかにイギリスとの貿易を継続した。ナポレオンはロシア皇帝アレクサーンドル1世に、代理人を通じたイギリスとの貿易を中止させ、またイギリスの潜在的な同盟国であるロシアを屈服させることで、イギリスから講和を引き出すことを狙った。
遠征の公式の意図は、ポーランドからロシアの脅威を排除することとされた。ナポレオンはポーランド人の歓心を買うべく、また政治的な正当性を添えるべく、遠征を「第二次ポーランド戦争」と命名した。
経過
戦争は西暦1812年6月24日、ナポレオンの「大陸軍」が、ロシア軍と交戦すべくニェマン川を突破したことから始まった。「大陸軍」は60万人以上の兵力で、ほぼ半数の30万がフランス兵、他にはプロイセンやオーストリアといったフランス同盟国、また属国のイタリア王国、ナポリ王国、スペイン王国、スイス、ライン同盟、またワルシャワ大公国などからの援軍によって構成されていた。
ナポレオンはロシア軍を戦闘に引き込むべく、いくつかの小競り合いやスモレーンスクにおける8月の会戦などで勝利を収めながら、ロシア西部を急がせた。ナポレオンは戦闘における勝利を通じて遠征を終わらせることを予定したが、ロシア軍は直接の戦闘を避け、ロシア内部への退却を続けた。ロシア軍はスモレーンスクを炎上するままに残し、スモレーンスクに設営しようとするナポレオンの計画を頓挫させた。
ロシア軍の後退に伴い、コサック部隊には村邑や町々、収穫物を焼き払う任務が与えられた。これは侵略軍に食料を現地調達させることを断念させるものだった。この自ら領土を破壊する焦土戦術は、フランス軍には当初その意図を掴むことができなかった。これらの行動はフランス軍に兵站の破綻をもたらし、フランス兵に夜間に野営地を離れて食料を探させることを強いた。そういった兵はコサック部隊に直面し、捕縛もしくは殺害された。
ロシア内部へのロシア軍のほぼ3か月かけた後退と、フランス軍への領土の明け渡しは、ロシア貴族を悩ませ、アレクサーンドル1世にロシアの軍司令官、陸軍元帥バルクラーイ=ド=トーリを交代させるよう圧力をかけさせた。アレクサーンドル1世はアウステルリッツでナポレオンと交戦した経験のある将軍ミハイール・クトゥーゾフ公爵を総司令官に任命した。とはいえ前任者バルクラーイ=ド=トーリの戦略をクトゥーゾフは継続し、続く2週間は後退を続けた。
9月7日、フランス軍はモスクワから70マイル西方のボロヂノーに布陣しているロシア軍と接敵した。「ボロヂノーの戦い(Бородинское сражение)」は、ナポレオン戦争の中では一日の戦闘で最も両軍に死傷者を出した戦闘となった。フランス軍は戦術的な勝利を得たものの、ロシア軍は決定的な勝利をナポレオンに与えることなく、さらに後退した。モスクワにフランス軍が迫る中、クトゥーゾフは軍議において、さらなる後退を決断した。
«Доколе будет существовать армия и находиться в состоянии противиться неприятелю, до тех пор сохраним надежду благополучно довершить войну, но когда уничтожится армия, погибнут Москва и Россия. Приказываю отступать»
(軍が存在し、敵へ対抗できる状況にある限りは、その時まで我々は戦争を成就する望みを保っている、だが軍が滅びては、モスクワとロシアは滅びる。退却を命ずる)
(М. И. Кутузов, 2 сентября 1812)
ナポレオンは1週間後にモスクワへ入城した。そこにはフランス皇帝に謁見すべき代表は一人もいなかった。住民は市を逃れて疎開し、さらにモスクワ市総督フョードル・ロストプチーンが、モスクワにおけるいくつかの拠点を焼き払うよう命じていた。
戦場における勝利は、戦争における勝利をナポレオンに与えなかった。
モスクワの占領はアレクサーンドル1世に和平講和を強いることはできず、ナポレオンの情勢は日を追うごとに悪化していった。ナポレオンはモスクワに残って和平交渉を模索したが、糧食も乏しく、冬期戦の準備のないナポレオン軍は疲弊し、残っていた馬匹も状態が悪化していた。10月7日、ナポレオンは後退を決断した。
クトゥーゾフは遂に攻撃の命令を下し、ロシア軍は退却中のナポレオン軍に大きな損害を与えた。
餓死状態の「大陸軍」は、ロシアの冬の始まりによっても苦しめられた。糧秣の欠乏、酷寒からの低体温症、孤立した部隊へのコサック部隊や農民のパルチザンの散発的な攻撃が、多大な戦死者と軍の統制の乱れをもたらした。ナポレオン軍の生存者がベレジナ川を11月に渡河した時、実働部隊は2万人前後にまで減少していた。「大陸軍」は38万人の戦死者と10万人の捕虜を出し消滅していた。ベレジナ渡河では、ナポレオンは元帥たちの是認を得て、軍を置き去りにし、皇帝としての地位を守るべく馬車と橇でパリへ戻った。
遠征は事実上、その始まりからほぼ半年後の1812年12月14日には終わっていた。
ロシア遠征に同行したクラウゼヴィッツは、結果が評価それ自体に与える影響を認めつつ、結果に基づく批判の必要性に触れている。
„Noch weniger kann man sagen, der Feldzug von 1812 verdiente eben den Erfolg wie die anderen, und, daß er ihn nicht hatte, liege in etwas Ungehörigem, denn man wird die Standhaftigkeit Alexanders nicht als etwas Ungehöriges betrachten können.“
(また、1812年の戦役は、他の戦役と同様の結果をもたらすはずだったのだが、それが得られなかったのは、何か不適当なことがあったからだとは、なおさら言えない。というのは、アレクサーンドルの毅然とした〔講和を拒む〕態度に何か不適当なこととみなされるものは何もないからである)
(„Vom Kriege“ 2 Buch, Kapital 5: Kritik)
クラウゼヴィッツは続ける。
„Was ist natürlicher, als zu sagen: in den Jahren 1805, 1807 und 1809 hat Bonaparte seine Gegner richtig beurteilt, im Jahre 1812 hat er sich geirrt; damals also hat er recht gehabt, diesmal unrecht, und zwar beides, weil es der Erfolg so lehrt.“
(次のように言えば、より自然である。1805年、1807年や1809年の戦役では、ボナパルトは彼の敵を適正に判断したが、1812年の戦役では彼は判断を誤った。つまり、当時の彼は正しかったが、今度は正しくなかった。というのは、両者の場合も、結果がそれを証明しているからである)
(„Vom Kriege“ 2 Buch, Kapital 5: Kritik)
祖国戦争における対敵協力
フランス軍に占領された地域では、いくつかの対敵協力の事例が発生した。たとえばモギリョーフ大主教ヴァルラーム(俗名シシャーツキイ)は、すでに1812年7月にはナポレオンに宣誓を行い、地元の僧侶たちの一部も彼の例に倣った。このため1813年、大主教は位を没収された。しかし1935年7月25日、モスクワ総主教の決定により、以前の神聖宗務院の1813年4月20日の決定は、「政治的な動機、政治情勢の圧力を受けてなされたものとして」完全に破棄されている(※1)。パルチザン運動が発生した地域においては、少数の対敵協力の例がみられた。例えばスモレーンスク県では61名がフランス軍に協力し、その中には7人の士官が含まれた(実際に軍に仕官してはいなかったが、住民の生活に関連する省庁に勤めていた)(※2)。士官でロシア軍から敵へ転向した例は稀だった。たとえば1813年1月、1812年の夏に敵側へ移り、ヴィリニュスでロシア人に捕らえられたニェジン竜騎兵連隊の騎兵旗手ゴロドニェーツキイが処刑されている(※2)。
※1 Церковно-исторический архив ПСТГУ. Ф.315. Оп.77. Д.1. Л.279
※2 Александров К. М. Генералитет и офицерские кадры вооружённых формирований Комитета освобождения народов России 1943—1946 гг. Диссертация на соискание учёной степени доктора исторических наук. Архивная копия от 12 июля 2017 на Wayback Machine — СПб., 2015. — С. 89.
戦果
遠征はナポレオン戦争の分岐点となった。
ナポレオンの名声は揺るがされ、フランスのヨーロッパにおける覇権は弱体化した。フランスと同盟国の軍で構成された「大陸軍」は、その初期の兵力の一片ほどにまで減少していた。
クラウゼヴィッツは書いている。
„Allein die Russen hatten die Aussicht, sich im Laufe des Feldzuges beträchtlich zu verstärken. Bonaparte hatte ganz Europa zu heimlichen Feinden (...) und das weite Rußland erlaubte, durch einen hundert Meilen langen Rückzug die Schwächung der feindlichen Streitkräfte aufs äußerste zu treiben. Unter diesen großartigen Umständen war nicht allein auf einen starken Rückschlag zu rechnen, wenn das französische Unternehmen nicht gelang, sondern dieser Rückschlag konnte auch den Untergang des Gegners herbeiführen. Die höchste Weisheit hätte also keinen besseren Kriegsplan angeben können, als derjenige war, welchen die Russen unabsichtlich befolgten.“
(ロシア軍には、戦役の過程において、戦力を大幅に増強できる見込みがあった。加えて、全ヨーロッパがボナパルトをひそかに憎んでいた……〔中略〕また、広大なロシアでは、百マイルもの内地への後退によって、敵の軍隊を極限まで疲弊させることが可能であった。このような重大な状況下では、強力な反撃が予期されたばかりでなく、フランスの意図が失敗に終わったならば、この反撃は、敵〔ナポレオン〕の没落さえもたらしかねないものであった。したがって、ロシアが意図せずにとった戦争計画に勝る最高の智慧はなかったのである)
(„Vom Kriege“ Achtes Kapitel: Beschränktes Ziel. Verteidigung)
フランスの同盟国プロイセン、続いてオーストリアが、フランスとの強制された同盟を破棄し、ロシア側へと移った。これは第六次対仏大同盟の戦争の引き金になった。
戦後
ナポレオンの圧力のもと、ワルシャワ大公国として独立していたポーランドは、ポーランド立憲王国としてロシア勢力圏に戻った。当時の首都サンクトペテルブルクのカザン聖堂には、潰走したフランス軍の軍旗が奉納され、その儀式は後に、独ソ戦の勝利後に赤の広場に赤軍兵士がドイツ国防軍の旗を投げ捨てるパフォーマンスによって繰り返された。
芸術面では、トルストイの小説『戦争と平和』や、チャイコフスキー作曲『1812年』などは祖国戦争を描いたもの。
激戦地「ボロヂノー」の名は、日露戦争で沈んだロシア帝国のボロヂノー級戦艦「ボロヂノー」などにも表れている。
歴史叙述における「祖国戦争」という用語
「祖国戦争」という用語は1813年、ロシア軍の国外への進出時に、Ф・Н・グリーンカがすでに自身の書簡で用いている。1815年、「1812年祖国戦争の歴史を持つ必要性についての考察」という表題を冠されて、彼の書簡は論文としてモスクワの定期刊行物『ロシア報知(Русский вестник)』(※1)に発表され、さらに翌1816年、いくつかの修正を経て、同論文はサンクトペテルブールクの雑誌『祖国の息子(Сын отечества)』にも発表された(※2)。1815年から1816年にかけては、彼の「1805年と1806年のフランス人に対するロシア国民の遠征、そして1812年から1815年の祖国国外遠征の詳細な記述を添えた、ポーランド、オーストリア領、プロイセン、フランスについての、ロシア人士官の手紙」が八章構成で、いくつかの版で出版された(※3)。「祖国戦争」の同義語として、Ф・Н・グリーンカは、あらゆる層の住民が参与したとして「人民の戦争(народная война)」という言葉も用いている(※4、※5)。
Д・М・フェーリドマンは、時代区分を見定め、「祖国戦争」という言葉がすでに1812年には用いられていたと結論した。1813年に『ロシア報知』で発表された論文「コサック隊長プラートフ伯爵の、ドン方面中将イロヴァーイスキイ5世およびカールポフ少将との対話」の中で、当時コサック軍団の参謀本部に勤務していた陸軍中佐А・Г・クラスノクーツキイは、「この祖国戦争は、我々ドン兵団の栄光を高めるであろう!」という言葉で始めている。(※5、※6)
評論的に「祖国戦争」という言葉を用いた人々は、具体的にはこの言葉にいかなる説明も与えておらず、ゆえにД・М・フェーリドマンの見解では、「この言葉の歴史の上では、すでに誰が『最初に言ったのか』ということは重要ではない」ということになる。事実上、この言葉を同時に「多くの人々が考えついたのであり、それゆえ、1813年においても、その後においても、この言葉の語義は必要とされなかった」。サンクトペテルブールクの文芸誌『北極星(Полярная звезда)』に、1823年、А・А・ベストゥージェフ=マルリーンスキイは書いている(※5、※7)。
それ(「祖国戦争」という言葉)は、祖国戦争でも我々と共にあった。ナポレオンが我々に襲いかかり、すべての感情、すべての利益が揺るがされた。すべての眼が、世界の半分がロシアと争っている戦場へと向けられ、全世界がその結末を待ち構えていた。当時「祖国」という言葉と「栄光」という言葉は、各人にとって電流のようだった。あらゆるビラが祖国の場所で、霊感をもって手渡された。
(ベストゥージェフ=マルリーンスキイ、А・А、1823年の傾向におけるロシア人文学への見解)
学問的な基準で、歴史記述への「祖国戦争」という言葉の導入は、А・И・ミハイローフスキイ=ダニレーフスキイにより、1839年の四巻からなるモノグラフ「1812年祖国戦争の記述(Описание Отечественной войны в 1812 году)」においてなされた(※5、※8、※9)。
1917年の十月革命後、「祖国戦争」の語はイデオロギー的な情勢ゆえに使用されなくなった。当初のソヴィエト歴史学において、1812年の戦争の取り扱いではマルクス主義歴史家、当時のソヴィエト歴史学者たちのリーダーだったМ・Н・ポクローフスキイの、ナポレオン戦争にロシアはもっぱら地主と商人の利益のため参戦したとする見方が支配的なものとなった。1812年における国民大衆の役割はそれゆえにきわめて低く評価され、その「愛国主義」はポクローフスキイの見解では「略奪者から自分の竈を(своего очага от мародёров)」守ることに帰結していたとされた。ナポレオンのロシア襲来それ自体を、М・Н・ポクローフスキイは「自己防衛の必然的な行為(акт необходимой самообороны)」であると性格づけ(※10)、彼が「祖国戦争」の語を使わざるを得ない場合は、П・А・ジーリンが指摘するように、「軽蔑的な引用符の中に(в пренебрежительные кавычки)」閉じて用いていた(※11、※12)。
全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会の1934年5月16日の決議「ソ連の学校における市民の歴史教育について(О преподавании гражданской истории в школах СССР)」、およびソ連人民委員会議の1936年1月26日の「歴史の教科書について(Об учебниках истории)」ののち、多くのソヴィエト歴史学者がさらされていた「図式化」「抽象的な社会論化」は批判を受け、1930年代中盤以降、「祖国戦争」の語は再び歴史家の著作で用いられるようになった。しばらくの「忘却」を経て、1812年戦争を差す「祖国戦争」の語は、アカデミー会員Е・В・タールレによって、1938年に初めて再び用いられている(※13、※14)。
※1 Глинка Ф. Н. Рассуждения о необходимости иметь Историю отечественной войны 1812 года // Русский вестник. — М.: Изд. С. Глинки, 1815. — № 4. — С. 25—49.
※2 Глинка Ф. Н. Рассуждения о необходимости иметь Историю отечественной войны 1812 года. — СПб.: Тип. Ф. Дрехслера, 1816. — Т. 27, № 4. — С. 138—162.
※3 Глинка Ф. Н. Письма русского офицера о Польше, Австрийских владениях, Пруссии и Франции с подробным описанием похода россиян против французов, в 1805 и 1806, также отечественной и заграничной войны с 1812 по 1815 год: в 8 частях. — М.: Тип. С. Селивановского, 1815—1816.
※4 Троицкий Н. А. Отечественная война 1812 года. История темы / ред. Л. И. Носова. — Саратов: СГУ им. Н. Г. Чернышевского, 1991. — 14 с.
※5 Фельдман Д. М. Опыт анализа публицистического дискурса: «партизаны» в «отечественных» и прочих войнах // Вестник РГГУ. Серия: Филологические науки. Журналистика. Литературная критика. — М.: Изд-во РГГУ, 2013. — № 12 (113). — С. 128—130.
※6 Краснокутский А. Г. Разговор войскового атамана графа Платова с донским генерал-лейтенантом Иловайским 5-м и генерал-майором Карповым // Русский вестник. — М.: Изд. С. Глинки, 1813. — № 9. — С. 51.
※7 Бестужев-Марлинский А. А. Взгляд на русскую словесность в течение 1823 года // Полярная звезда, изданная А. Бестужевым и К. Рылеевым / отв. ред. В. Г. Базанов. — М.-Л.: АН СССР, 1960. — С. 265. — (Литературные памятники).
※8 Троицкий, 1991, с. 15—16.
※9 Martin A. M. Russia and the legacy of 1812 (англ.) // The Cambridge History of Russia: in 3 Vol / Ed. by D. Lieven. — Cambridge: Cambridge University Press, 2006. — Vol. 2: Imperial Russia, 1689—1917. — P. 150.
※10 Покровский М. Н. Дипломатия и войны царской России в XIX столетии. — М.: Красная новь, 1923. — С. 3—83.
※11 Жилин П. А. Гибель Наполеоновской армии в России. — М.: Наука, 1974. — 451 с.
※12 Троицкий, 1991, с. 29—32.
※13 Тарле Е. В. Отечественная война 1812 года: (Из цикла «Прошлое нашей родины»). — М., 1938. — 8 с. — (Микрофонные материалы Всесоюзного радиокомитета. Исключительно для радиовещания. Для Сектора агитации и пропаганды; № 104).
※14 Троицкий, 1991, с. 35.
大祖国戦争
「祖国戦争」の名は、独ソ戦のロシア側呼称「大祖国戦争」にも表れた。「祖国戦争」の語や、ロシア奥深くに敵を引き入れ反撃するという構図は、独ソ戦の初期からモーロトフやスターリンのラジオ演説で繰り返し引き合いに出された。独ソ戦中には、ミハイール・クトゥーゾフの名を冠した「クトゥーゾフ勲章」も制定された。
戦後、スターリンは書いている。
«Я думаю, что хорошо организованное контрнаступление является очень интересным видом наступления. Вам как историку следовало бы поинтересоваться этим делом. Еще старые парфяне знали о таком контрнаступлении, когда они завлекли римского полководца Красса и его войска в глубь своей страны, а потом ударили в контрнаступление и загубили их. Очень хорошо знал об этом также наш гениальный полководец Кутузов, который загубил Наполеона и его армию при помощи хорошо подготовленного контрнаступления.»
(私は、よく組織された反攻が、きわめて興味のある攻勢の形態であると信じる。歴史家として、あなたはこのことに注意すべきであろう。すでに古代でもパルティア人はこの反攻形態を知っていた。彼らは、ローマの軍司令官クラッススとその軍勢を自国の内部に引き入れておいて、次に反攻に移り、これを粉砕した。我々の天才的司令官クトゥーゾフはこの戦闘形態をよく知っており、よく準備された反攻のおかげでナポレオンの軍勢を壊滅させたのである)
(訳文は大月書店の日本語版『スターリン戦後著作集』収録の訳を参考)
(Сталин И.В., «Ответ товарищу Разину», 23 февраля 1946 года)