概要
洋画と呼ばれる海外映画の多くがアメリカ産であることからも、その市場規模は図り知ることができる。
アメリカ映画に「日本よ、これが映画だ。」というキャッチコピーが付いてくる程度には映画のメインストリームを走っている。
こうなった背景には、圧倒的な経済力や地の利、二度の世界大戦でヨーロッパの映画人が亡命してきたことなどがある。
アメリカの映画といえば《映画の都》ことハリウッドであるが、ここが映画の中心地となったのは、晴れが多く撮影がしやすいことと、映画会社同士の抗争の歴史による。
また、ハリウッドに限らずアメリカの主な映画会社は全てカリフォルニア州を本拠地としている。
関連事項
- 大列車強盗
1903年公開。アメリカ映画の始祖。12分の短編ながら世界初のアクション映画であり、西部劇映画でもある。
- モーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー(MPPC)とハリウッド
1908年、エジソンら大手映画会社が組んだ大型トラスト。これによってアメリカ映画が本格的に作られるようになり、配給・上映の方式が標準化された。しかし映画業界の占有を図ったため、中小企業のインディペンデント系と抗争が発生。血を血で洗う世紀末となった。インディペンデントの映画人たちは、トラストに見つかると機材を破壊され、裁判沙汰になった。ここでハリウッドが登場する。トラストの目から逃れ、撮影に適した環境でもあった新天地こそがハリウッドだった。その後1917年、MPPCが崩壊すると大手会社もハリウッドに活動を移し、ハリウッドは映画の都になったのだった。
- ハリウッド黄金期
1930-40年代。メジャー映画会社のスタジオシステムとスターシステムが全盛であったころ。メトロ・ゴールドウィン・メイヤー、パラマウント映画、20世紀フォックス、ワーナーブラザーズ、RKOの大手五社を《ビッグ5》、それより規模が小さいコロンビア映画、ユニバーサル・ピクチャーズを《リトル2》と呼び、それに配給専門会社のユナイテッド・アーティスツを合わせた八社が主体であった。このころは映画監督よりもスタジオ(映画会社)の方が地位が高く、監督は一部の巨匠を除いて、指定された脚本を映像化する職人扱いだった。世界恐慌や第二次世界大戦により、現実逃避のできるハッピーエンドの映画が好まれた。黄金期の終わりは、戦後の赤狩りでスタッフが失われたことと、テレビが普及したこと、《ビッグ5》が司法省に独占禁止法違反で訴訟され、49年に判決が下されたことで訪れた。
- ヘイズ・コード
1934年から1968年まで実地されていた自主規制。悪徳・性的な描写に規制を敷き、夫婦が同室で寝るのもNG。殺人などの暴力や同性愛も規制された。このため映画人たちは必要な表現のために知恵を絞った。
40年代から60年にかけてアメリカで作られた犯罪映画。フランスの批評から発生した言葉で、《暗黒映画》を意味するフランス語。探偵、警察、ギャング、悪女らが暗躍するハードボイルドな作風。多くはモノクロのB級映画だった。先述の通りヘイズ・コードがあったため、間接的な描写、あるいは隠喩を使った。
1967年の『俺たちに明日はない』を皮切りに、体制に反旗を翻すカウンター・カルチャーとしての映画が流行した。ケネディ暗殺、公民権運動への弾圧、ベトナム戦争への米軍の介入などで政府や警察に対する不信が飛び火した結果だった。総じて反社会的な生き方をする若者が主役であり、バッド、あるいはビターな終わり方をする。1976年の『ロッキー(映画)』や1977年の『スター・ウォーズ』が大ヒットしてからは再びハッピーエンドの映画が増えた。
- ブロックバスター
桁外れのヒット作。1区画(ブロック)を破壊する爆弾の名に由来。70年代にコッポラの『ゴッドファーザー』、スピルバーグの『ジョーズ』、ルーカスの『スター・ウォーズ』といった世界的ヒット作が次々に公開されたことから、話題を一本の映画に集中させ、大量の観客を動員しようという戦略が生まれた。ブロックバスターになることをあらかじめ見込まれて製作される場合、制作費より宣伝費の方が高騰することも。