ロシア語の苗字。ここでは有名な人物として、レオニード・ブレジネフについて解説する。
概要
レオニード・イリイチ・ブレジネフ(ロシア語:Леони́д Ильи́ч Бре́жнев、ウクライナ語:Леонід Ілліч Брежнєв、ラテン文字表記の例:Leonid Il'ich Brezhnev、1906年12月19日 - 1982年11月10日)は、ソビエト連邦の政治家。1964年10月から1982年11月まで同国の第4代最高指導者であった。フルシチョフの後任の党書記長(当初は第一書記)となり、1977年6月からは最高会議幹部会議長を兼任した。ブレジネフの統治は政治的な安定性と外交上の成功という性格を持つ一方で、腐敗・非効率・経済停滞・急速に開いた西側諸国との技術的な格差によって特徴付けられる。
経歴
1906年12月19日にロシア帝国のイェカチェリノスラフ県カーメンスコエに誕生した。1917年11月のロシア革命以後の若者たちの多くと同様に技術的な教育を受け、まず土地の経営の後に冶金学を学んだ。1923年に共産党青年組織のコムソモールに加入し、1929年10月に党の中央委員候補となり、1931年10月に正式な党員となった。
1935年10月に義務的な軍務に服し、戦車学校における講習を受けて戦車工場のコミッサールとなった。同年5月にカーメンスコエ冶金技術テフニクム(技術大学)を卒業し、ウクライナ東部の製鉄・製鋼工場で冶金技術者となった。
1936年8月に実施されたヨシフ・スターリン党書記長による大粛清の最中に、ブレジネフはアパラーチクの中の受益者の一人となった。同年11月にドニエプロジェルジーンスク冶金技術テフニクム(技術大学)の校長となり、ドニエプロペトローフスクの中心へと移った。1937年5月にカーメンスコエ市ソヴィエトの副議長となり、1938年5月にニキータ・フルシチョフがウクライナ共産党の実権を掌握した後、ブレジネフはドニエプロペトローフスク州の共産党プロパガンダ部局長となった。1939年2月に地区党書記へと任命され、市の防衛産業の責任者となり、この時に支持者たちのネットワークを築き上げる事になった。これは「ドニエプロペトローフスク・マフィア」として知られるブレジネフの権力への上昇を大いに助ける事になる。
1941年6月に独ソ戦が開始され、軍の政治委員として活動した。1943年4月に第18軍の政治部長になり、1946年4月に少将の階級で赤軍を去ってドニエプロペトロフスク州共産党委員会に復帰し、第一書記となる。ブレジネフはドニエプロペトロフスク州での人脈を権力強化に利用し、彼らはドニエプロペトロフスク・マフィアと呼ばれた。1952年10月に党中央委員会及び最高会議幹部会の構成員となった。
1953年3月にスターリンが死去し、フルシチョフの後援によって軍政治総局長第1代理に任命された。1954年2月にカザフスタン共産党中央委員会第二書記となり、1955年8月に同党中央委員会第一書記としてカザフスタンの開拓事業を指導した。
1956年2月にモスクワへ戻ってフルシチョフの側近となり、1957年6月にスターリン派との権力闘争でフルシチョフを支持し、政治局員となる。1960年5月に最高幹部会議議長に就任し、名目上の国家元首になった。この時西側諸国への外遊により、高級車・ブランド品への欲望が高まる。
1964年10月にフルシチョフが失脚した後に党第一書記となり、同国の第4代最高指導者となった。1965年12月にアナスタス・ミコヤンが失脚し、党はブレジネフ、コスイギン、ポドゴルヌイのトロイカ体制となる。コスイギンは経済改革を提唱した事で保守派の反発を招き、ブレジネフの発言権が増す。1966年4月に「党第一書記」をスターリンの肩書きであった「書記長」に戻した。
1976年5月に軍隊を指揮した経験も無しにソ連邦元帥となる。健康状態が悪化したブレジネフは権力に強く執着するようになって数々の勲章で自らを飾ったが、国民からの尊敬を得られなかった。1977年6月にポドゴルヌイに引退を強要し、ブレジネフが最高会議幹部会議長を兼任した。同年10月に憲法改正(ブレジネフ憲法)を実行する。
1982年11月10日に心臓発作によって75歳で死去し、赤の広場に埋葬される。
外交
アメリカ合衆国
1972年5月にアメリカのリチャード・ニクソン大統領との首脳会談で戦略兵器制限条約を締結し、ブレジネフはアメリカとの緊張緩和(デタント)を推進した。その一方で1971年12月の第3次印パ戦争、1973年10月の第4次中東戦争、1975年3月のアンゴラ内戦、1977年7月のオガデン戦争など米ソの代理戦争が行われた。
アフガニスタン
1979年12月にアフガニスタンへの軍事侵攻を実行し、アメリカとの緊張緩和は終焉した。これが原因で1980年7月に共産圏で初の開催となったモスクワオリンピックは、同国への軍事侵攻を非難する諸国からボイコットされ、再度開始した軍拡でソ連経済は悪化した。
チェコスロヴァキア
1968年1月にチェコスロバキアのアレクサンデル・ドゥプチェク共産党第一書記による改革(プラハの春)に危機感を持ち、「修正主義」と批判してワルシャワ条約機構軍を軍事介入させた。介入を正当化する論理は西側では「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ばれたが、ソ連に対する期待が失われて国際共産主義運動は分裂した。
中華人民共和国
1969年3月にウスリー川のダマンスキー島(珍宝島)で武力衝突が発生し、ブレジネフの治世では中国との関係は悪化し続けた。
日本
1973年10月に田中角栄首相と会談し、共同声明を発表した。同声明では「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して平和条約を締結する事が、両国間の真の善隣友好関係の確立に寄与することを認識し、平和条約の内容に関する諸問題について交渉した。」と明記され、ブレジネフは北方4島の問題が戦後の未解決の諸問題の中に含まれる事を口頭で確認した。その他にヤクートの天然ガス・チュメニ油田・サハリン大陸棚の共同開発などの日本との経済協力を打ち出した。
アネクドート
ブレジネフ関係のアネクドートは無数にあり、以下のものなどがある。ちなみにブレジネフが党幹部となった後も、母のナタリアは年金受給者として古いアパートで暮らし続けた。
『ブレジネフが誘拐されて誘拐犯から電話があった。「100万ドル払え。さもないとブレジネフを生かして帰す」』
『モスクワオリンピックでブレジネフが演説を始めた。「O! O! O! O! O!」側近が演壇に駆け寄ってささやいた。「レオニード・イリイチ、それはオリンピックの旗です。読む必要はありません」』
『ブレジネフは母親に偉くなったところを見せようとモスクワへ呼んだ。豪華な執務室・幹部用住宅・幹部用別荘などを連れ回すにつれ、母親の顔は暗くなった。「お前が偉くなって嬉しいよ。でも、ボルシェビキの連中に殺されないかね?」』
個人崇拝
ロシアの歴史家であるロイ・メドヴェーヂェフは、ブレージネフの官僚的な心的傾向と個性こそ、彼に権力を得させることを可能にした力であると強調する。ブレージネフは自分の友人たちに忠実であり、儀礼的な権力をむやみに渇望し、そして党内における腐敗の抑制を拒絶していた。特に外交政策では、ブレージネフは政治局の同僚たちに何も告げることなく、ますます自分自身で決定を下すようになっていった(※1)。
ブレジネフは意図的に、様々な人々に対し様々なペルソナを示すようになり、それは彼自身のキャリアの体系的な美化へと帰結していった。ブレージネフ時代の最晩年は、増大する個人崇拝に特徴づけられる。ブレージネフのメダルへの愛好(彼は百個以上のメダルを受け取っていた)はよく知られており、1966年12月の60歳の誕生日にブレジネフはソヴェト同盟英雄の称号を受け取っている。
ブレジネフはソヴェト同盟英雄称号と共にレーニン勲章と金星記章を受け取っており、さらに3度彼の誕生日の祝典で授与されている。1976年12月にブレジネフはソヴェト同盟元帥の位に叙されており、これはソヴェト同盟における最高位の軍事的な栄典である。この階級に叙された後にブレージネフは陸軍の退役軍人たちの第18回大会へと出席し、長いコートで着飾って「気を付け! 元帥がやって来るぞ」と言っていた。
1978年2月にブレジネフは勝利勲章を自身に授与したが、1989年9月に表彰の基準を満たしていないとして、死後に剥奪されている。
ブレージネフの分不相応な栄誉への渇望は、彼の貧弱な回顧録の中によっても示されている。回顧録は、ブレージネフの第二次世界大戦中の軍務について回想し、あまり重要ではないノヴォロシースク周辺での戦闘を、決定的な戦域として扱っている(※5)。彼の本の明白な薄弱さにもかかわらず、この本はレーニン文学賞を受賞し、ソヴェトの報道によって歓迎された(※4)。
この本の後、さらに二つの別の本が続き、その1つは処女地キャンペーンに関するものである(※6)。ブレージネフの虚栄心は、彼を多くの政治的なジョークの対象とした(※4)。ニコライ・ポドゴルヌイがこれについて警告すると、ブレジネフは「もし彼らが私をからかっているのなら、つまり彼らは私を好きだということだ。」と答えた(※7)。
伝統的な社会主義的挨拶を保ち、ブレージネフは彼の経歴の中で、多くの政治家の唇に接吻していた。そのうちのひとつはエーリヒ・ホーネッカーとのもので、その開放・解体後にベルリンの壁に描かれた壁画〈神よ、この死に至る愛の中で我を生き延びさせ給え〉の主題となっている(※8、※9)。
※1 Roy Medvedev, "Brezhnev-A Bureaucrats Profile." Dissent (Spring 1983): 224–233.
※2 John Dornberg, Brezhnev: The Masks of Power (1974).
※3 Bacon, Edwin; Sandle, Mark, eds. (2002). Brezhnev Reconsidered, Palgrave Macmillan, p. 8.
※4 Bacon & Sandle 2002, p. 9.
※5 Service, Robert (2009). History of Modern Russia: From Tsarism to the Twenty-first Century (3 ed.), p. 403. Penguin Books Ltd. ISBN 978-0674034938.
※6 Abdullaev, Nabi (19 December 2006). "Brezhnev Remembered Fondly 100 Years Since Birth". The St. Petersburg Times. Archived from the original on 21 January 2012. Retrieved 11 April 2010.
※7 Bacon & Sandle 2002, p. 29.
※8 "Kiss of Soviet Leader Brezhnev and East German President Honecker". Corbis. ソヴェトの指導者レオニート・ブレージネフと東ドイツの大統領エーリヒ・ホーネッカーが、ドイツ社会民主共和国30周年の式典でキスを交わしている。
※9 "Brezhnev Hugs Poland's Ruler". The Deseret News. Associatged Press. 1 March 1982. p. 1 – via Google News.
出自
ブレージネフは金属細工師であるイリヤー・ヤーコヴレヴィチ・ブレジネーフ(1874年~1934年)とその妻ナターリヤ・ヂェニーソヴナ・マザーロヴァ(1886年から1975年)の間に生まれた。彼の両親は、カーメンスコエへと移る以前には、ブレジネヴォ(クルスク地区、クルスク州、ロシア)という、家名と同じ名の村に暮らしていた。
民族
(多民族国家であるソ連およびその影響を受けた国々では、«гражданство»(国籍)のほか、どのナショナリティ/エスニシティにアイデンティティを持っているか、身分証明書に民族籍が明記された。日本語で「日本語話者」「大和民族」「日本国民」「日本出身者」がすべて意味が異なることを考えられたい。※1)
ブレージネフは民族的には«русский»(ロシア人)だが、彼のパスポートも含めたいくつかの文書では«украинец»(ウクライナ人)と記されている(※2、※3、※4)。別の文書ではロシア人と書かれており(※5、※6)、ブレジネフ自身のロシア人であるという声明は、自身の「回顧録」(1979年12月)の中に見出される。そこでブレジネフは以下のように書いている。
「そして民族籍によれば、私はロシア人であり、私はプロレタリアートであり、代々の冶金技術者であった(※7)」
※1 このシステムを説明する日本語書籍としては石川晃弘『スロヴァキア・スイッチ』22世紀アート、2021年、142ページから143ページを参照。詳しくはテリー・マーチン『アファーマティヴ・アクションの帝国──ソ連の民族とナショナリズム、1923年~1939年』(明石書店、2011年)など。
※2 ブレージネフの身分証明書。«национальность»(民族籍)は«украинец»(ウクライナ人)であると表記されている。
※3 ブレージネフの賞与証書。同上。
※4 1947年時点のブレージネフのパスポート。同上。
※5 1943年時点のブレージネフの賞与証書。«русский»(ロシア人)となっている。ロシア語では«россиян»(ロシア国民/ロシア国籍保有者)と«русский»(民族的ロシア人)は峻別される。
※6 Bacon, Edwin; Sandle, Mark, eds. (2002). Brezhnev Reconsidered, Palgrave Macmillan, p. 6.
※7 "ЖИЗНЬ ПО ЗАВОДСКОМУ ГУДКУ". supol.narod.ru (in Russian). Retrieved 12 June 2022.
ブレージネフ時代の遺産
ブレージネフは、イオーシフ・スターリンを除き、誰よりも長くソヴェト同盟を率いた。彼はしばしば、長引いた「停滞の時代」ゆえに批判される。「停滞の時代」においては、根本的な経済問題が無視され、ソヴェト同盟の政治システムが衰退するままにされたとされる。ミハイール・ゴルバチョーフの指導者としての在職期間中、ブレージネフが「獰猛にネオ・スターリン主義の路線」を追い求めていたなどという、ブレージネフ時代への批判が高まりを見せた。ゴルバチョーフ時代の言説は、ブレージネフを、国の近代化と時代に合わせた変化に失敗したと非難していたが(※1)、一方、ゴルバチョーフののちの声明では、ブレージネフが後になって描き出されたほど悪くはなく、「ブレージネフは、いま彼が描かれるような、風刺画的な人物では全くなかった」ともしている(※2)。ブレージネフの経歴の中では最大のひとつであるアフガニスタン介入は、ソヴェト同盟の国際的な地位と、国内的な強さとの双方とを蝕むことになった(※3)。ブレージネフを弁護するとすれば、彼の統治下で、ソヴェト同盟はかつてなく、また二度とないレベルの国力、威信、そして国内的な安定を達成していた(※4)。
ブレージネフは、ロシアで行われた世論調査では、彼の後継者と前任者と比較して好評を得た。ВЦИОМによって2007年に行われた世論調査では、ロシアの多数派は、仮に暮らすとすれば、他の20世紀のあらゆるソ連時代よりも、ブレージネフ期を選んだ(※5)。レヴァダ・センターが2013年に行った調査では、ブレージネフはロシアの20世紀の好ましい指導者として、ヴラヂーミル・レーニンを肯定的な反応で56%も凌駕した(※6)。2013年に行われた別の投票では、ブレージネフは20世紀のロシアの最良の指導者に選出されている(※7)。2018年、社会科学グループ「レーティング」の調査では、ウクライーナの回答者の47パーセントがブレージネフに肯定的な評価を下していた(※8)。
西側では、ブレージネフは多くの場合、やがてソヴェト同盟の解体の引き金を引くことになる経済停滞を引き起こした人間として記憶されている(※9)。
※1 Bacon, Edwin; Sandle, Mark, eds. (2002). Brezhnev Reconsidered, Palgrave Macmillan, p. 2.
※2 Bacon, Edwin; Sandle, Mark, eds. (2002). Brezhnev Reconsidered, Palgrave Macmillan, p. 27.
※3 McCauley, Martin (2008). Russia, America and the Cold War, 1949–1991, Pearson Education, p. 77.
※4 Bacon, Edwin; Sandle, Mark, eds. (2002). Brezhnev Reconsidered, Palgrave Macmillan, p. 1.
※5 "ВЦИОМ: Лучшие лидеры — Брежнев и Путин" (in Russian). Rosbalt.ru. 25 April 2007. Retrieved 15 April 2010.
※6 "Brezhnev Beats Lenin as Russia's Favorite 20th Century Ruler". RIA Novosti. 22 May 2013. Retrieved 24 May 2013.
※7 Kolyandr, Alexander (22 May 2013). "Brezhnev Tops List of Most Popular 20th-Century Moscow Rulers". The Wall Street Jo. Retrieved 25 November 2020.
※8 "Survey shows Ukrainians most negatively regard Stalin, Lenin and Gorbachev". Kyiv Post. 20 November 2018.
※9 Bacon, Edwin; Sandle, Mark, eds. (2002). Brezhnev Reconsidered, Palgrave Macmillan, p. 8.
レオニート・ブレージネフが受章した賞と勲章
ソヴェト同盟の褒章
ソヴェト同盟英雄 | 1966年12月18日、1976年12月18日、1978年12月18日、1981年12月18日 | 「ソヴェト国家及び社会への奉仕における英雄的な功績のため」。メダルも誕生日に授与された。 |
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社会主義労働英雄 | 国家の経済と文化における卓越した功績のため | |
レーニン勲章 | 1947年12月2日、1956年12月18日、1961年6月17日、1966年12月18日、1971年10月2日、1976年12月18日、1978年12月19日、1981年12月18日 | 国家への優れた奉仕のゆえ |
十月革命勲章 | 1979年3月14日、1980年12月18日 | 共産主義もしくは国家の促進、またソヴェト同盟の国防の強化ゆえに |
赤旗勲章 | 1942年3月12日、1944年5月29日 | 戦闘中の英雄主義、または戦闘作戦中の卓越した軍事的な功労 |
第二級ボグダン・フメリニツキー勲章 | 1945年5月25日 | ソヴェトの国土の解放のための戦闘行動における卓越した功労のゆえに |
第一級祖国戦争勲章 | 1943年9月18日 | ソヴェト母国のための戦闘と、その行動が軍事作戦に多大に寄与した兵士たちの、卓越した奉仕と功労のゆえに |
赤星勲章 | 1943年3月16日 | 戦時と平時におけるソヴェト同盟防衛のための卓越した勤務のために |
「ヴラヂーミル・イリイーチ・レーニン生誕百周年祝賀」記章 | ||
「オデッサ防衛」記章 | 1942年 | オデッサ防衛戦の参加者全員に |
「カフカース防衛」記章 | 1944年 | カフカース防衛戦の参加者全員に |
「1941-1945年大祖国戦争対独戦勝」記章 | 1945年 | 市民、およびソヴェト陸軍、海軍の軍人、НКВД職員全員のために |
「1941-1945年大祖国戦争戦勝二十周年」記章 | 1965年 | 市民、およびソヴェト陸軍、海軍の軍人、НКВД職員全員のために |
「1941-1945年大祖国戦争戦勝三十周年」記章 | 1975年 | 市民、およびソヴェト陸軍、海軍の軍人、НКВД職員全員のために |
「ワルシャワ解放」記章 | 1945年 | ワルシャワ解放に直接的に関わった全市民、およびソヴェト陸軍、海軍の軍人、НКВД職員のために |
「1941-1945年の大祖国戦争における功績」記章 | 1945年 | ドイツに対するソヴェトの戦争遂行に貢献した産業および輸送業の労働者、技術者、被雇用者、および農民および農業専門家、科学者、芸術家、作家、公務員、党員、労働組合員、そしてその他の公共機関員のために |
「軍の絆の強化」記章 | 1980年6月2日 | 多様な軍種の間における軍事的な協力関係の強化に対する貢献 |
「南部黒鉄冶金産業の復興」記章 | 1945年 | ドイツに対するソヴェトの戦争遂行に貢献した産業および輸送業の労働者、技術者、被雇用者、および農業従事者、農業専門家、科学者、芸術家、作家、公務員、党員、労働組合員とその他公共機関員のために |
「処女地開拓」記章 | 1957年4月29日 | 処女地開拓カンパニヤの最中に貢献した、コルホーズ農業従事者、国営農場労働者、集団労働者、党および国家の公務員、労働組合員およびコムソモール員のために |
「ソヴェト同盟軍四十周年」記章 | 1958年 | ソヴェト同盟軍の建設四十周年を祝賀し、元帥、将軍、提督、士官およびその他の軍人へと授与された。 |
「ソヴェト同盟軍五十周年」記章 | 1968年 | ソヴェト同盟軍の建設五十周年を祝賀し、元帥、将軍、提督、士官およびその他の軍人へと授与された。 |
「ソヴェト同盟軍六十周年」記章 | 1978年 | ソヴェト同盟軍の建設六十周年を祝賀し、元帥、将軍、提督、士官およびその他の軍人へと授与された。 |
「レニングラード250周年記念」記章 | 1957年 | レニングラード建設250周年を祝賀し、市民および軍勤務者へと授与された。 |
「キーエフ1500周年記念」記章 | 1982年 | ウクライーナ首都キーエフの社会・文化的、および経済的発展への彼の貢献ゆえに |
レーニン文学賞 | 1979年 | ブレージネフ三部作と俗に呼ばれる三部作の一部『小さな土地』のために |
レーニン平和賞 | 1973年 | |
勝利勲章 | 1978年2月20日(1989年9月21日、ソヴェト同盟最高ソヴェト幹部会の布告によって剥奪された) |
外国の褒章
アルゼンチン共和国
五月大十字章 | 1974年 | 「国家と人類の特別な認識を高めた人々の美徳と功労、また彼らが国家の前に示した優れた業績に報いるために」 |
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アフガニスタン民主共和国
「自由の太陽」勲章 | 1981年 | カーブル | アフガニスタンの民族グループ間の、そしてアフガニスタンとその他の国々の間での友情と協力の発展 |
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ブルガリア人民共和国
ブルガリア人民共和国英雄 | 1973年、1976年、1981年 | ソフィア | ブルガリアおよびブルガリアの同盟国の防衛における功績 |
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ゲオルギ・ディミトロフ勲章 | 1973年、1976年、1981年 | ソフィア | ブルガリアの防衛と自由のための卓越した奉仕、もしくは社会主義への貢献 |
「オスマン奴隷制からの解放百周年」記章 | 1978年 | ||
「ブルガリア社会主義革命三十周年」記章 | 1974年 | ||
「Г・ディミトロフ生誕九十周年」記章 | 1972年 | ||
「Г・ディミトロフ生誕百周年」記章 | 1982年 |
キューバ共和国
キューバ共和国英雄 | 1981年 | ハバナ | |
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ホセ・マルティ勲章 | ハバナ | ||
カルロス・マヌエル・デ・セスペデス勲章 | ハバナ | 民族解放闘争における傑出、キューバ革命への友情、もしくは世界平和への貴重な貢献のために | |
プラヤ・ヒロン勲章 | ハバナ | ||
「モンカダ兵営襲撃二十周年」記章 | ハバナ | ||
「革命軍二十周年記念」記章 | 1976年 | ハバナ |
チェコスロヴァキア社会主義共和国
チェコスロヴァキア社会主義共和国英雄 | 1970年5月5日、1976年10月26日、1981年12月16日 | プラハ | |
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クレメント・ゴットヴァルト勲章 | 1970年、1976年、1978年、1981年 | プラハ | 「チェコスロヴァキアにおける社会主義体制の定着を実現する上での卓越した功績」 |
白獅子勲章 | 1946年 | プラハ | 「チェコスロヴァキア社会主義共和国への卓越した奉仕ゆえに」 |
「ドゥクラ峠の戦い」記章 | 1960年 | ||
軍記念記章 | 1946年 | 「卓越した軍事的な功績のために」 | |
チェコスロヴァキア従軍十字章 | 1945年、1947年 | プラハ | 「武功たる行動」 |
敵前勇敢記章 | 1945年 | プラハ | 「敵を前に示した勇気のゆえに」 |
デルグ
社会主義エチオピアの名誉の星勲章 | 1980年 |
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フィンランド共和国
フィンランド白薔薇勲章 | 1976年 | ヘルシンキ | 民間の、また軍人の功労のために |
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ドイツ民主共和国
ドイツ民主共和国英雄 | 1976年、1979年、1981年 | 東ベルリン | 「ドイツ民主共和国のための、その発展と全面的な安定のための、また国際的な承認と権威および、その安全な軍事的防備のための卓越した功績、また収益もしくは奉仕」 |
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カール・マルクス勲章 | 1974年、1979年、1981年 | 東ベルリン | |
諸国民友好勲章 | 1976年 | 東ベルリン |
ハンガリー人民共和国
ハンガリー人民共和国旗勲章 | 1976年、1981年 | ブダペスト | ハンガリーへの功労ある奉仕 |
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インドネシア共和国
第一級共和国星章 | 1961年 |
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ラオス人民民主共和国
国民黄金記章 | 1982年 |
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モンゴル人民共和国
モンゴル人民共和国英雄 | 1976年 | ウランバートル | |
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モンゴル人民共和国労働英雄 | 1981年 | ||
スフバートル勲章 | 1966年、1971年、1976年、1981年 | ウランバートル | |
「対日戦勝三十周年」記章 | |||
「ハルヒン・ゴル戦勝三十周年」記章 | 1969年 | ウランバートル | ハルヒン・ゴルの戦いの参加者のために |
「モンゴル人民革命五十周年」記章 | ウランバートル | ハルヒン・ゴルの戦いの参加者のために |
朝鮮民主主義人民共和国
第一級国旗勲章 | 1973年 |
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ペルー共和国
ペルー太陽勲章 | 1978年 | リマ |
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ポーランド人民共和国
ウィルトゥティ・ミリタリ大十字勲章 | 1974年7月21日(1990年7月10日をもって剥奪された) | ワルシャワ | |
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ポーランド復興大十字勲章 | 1976年 | ワルシャワ | |
第二級グルンヴァルト十字章 | 1946年 | ワルシャワ | |
「オドラ、ニサ、バルト海」記章 | 1946年 | ワルシャワ | 「オドラ川とニサ川、そしてバルト海の海岸線に沿った新たな国境線のために戦い、そしてポーランドの古代のスラヴの土地が西方および北方へと復帰する様を見たポーランド兵士の偉大な勝利を記念し、また彼らの闘争へと参加した人々を祝賀するために」 |
「勝利と自由」記章 | 1946年 | ワルシャワ | 「ポーランド国民とその同盟国のヒトラー主義の蛮行に対する勝利、そして民主的自由思想の凱旋を祝賀するために、そしてこの勝利と凱旋を国の内外でその行動や苦痛をもって支援した人々に報いるために、1945年5月9日」 |
ルーマニア社会主義共和国
イエメン人民民主共和国
十月十四日革命記章 | 1982年 |
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ヴェトナム社会主義共和国
ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国
家名
ロシア語の名字ブレジネフ(брежнев、ブレージネフ)は、ロシア語«бережний»もしくは«бережный»(「慎重な」、「注意深い」)に由来する。«берег»(「崖」)に住む者の意味とされる(※1)。著名な人物は以下のとおり。
- ヴィクトーリヤ・ブレージネヴァ(1906-1982)。レオニード・ブレジネフの妻。
- ヴラヂーミル・ブレージネフ(1935-1996)。ロシアのホッケー選手。
- ガリーナ・ブレージネヴァ(1929-1998)。レオニード・ブレジネフの娘。
- ユーリイ・ブレージネフ(1933-2013)。レオニード・ブレジネフの息子。
- リュボーフィ・ブレージネヴァ(生年不明)。レオニード・ブレジネフの姪。
- ヴェーラ・ブレージネヴァ(1982-)。ウクライナの歌手。
- 『ブレジネフ』(2005年)。レオニード・ブレジネフの伝記映画。
- サイモン・ブレジネフ 『デュラララ!!』の登場人物。
- タタールスタン共和国の都市ナーベレジヌィエ・チェルヌイ。同都市の1982年11月から1988年1月にかけての名称。レオニード・ブレジネフに因んで改名されていた。
※1 Федосюк Ю. А. Русские фамилии: Популярный этимологический словарь. — М.: Русские словари, 1996. — С. 42. — 288 с.
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党中央委員会書記長
(前任者)ニキータ・フルシチョフ
(後任者)ユーリ・アンドロポフ