中ソ対立
ちゅうそたいりつ
概要
中ソ対立(ちゅうそたいりつ、ロシア語:Советско–китайский раскол、中国語:中苏交恶)は、1956年2月から続いていた中国とソ連の対立状態の事である。最初は両国が政党の間で理論・路線をめぐって対立していたが、次第にイデオロギー・軍事・政治に至るまで拡大し、1989年5月にソ連のミハイル・ゴルバチョフ党書記長が中国を訪問した事でこの対立は終結した。
歴史
対立の始まり
1947年3月にアメリカとソ連が対立する東西冷戦が開戦し、1950年2月に中国とソ連は友好同盟相互援助条約を締結したが、1979年4月に中国が条約を延長しない意志を一方的に通告して1980年4月に失効した。1956年2月にフルシチョフは第20回党大会で、先代であるスターリンの独裁政治・権威主義・個人崇拝を否定するスターリン批判を展開し、西側陣営との平和共存を提唱した。
継続する対立
1962年10月に中印国境紛争が開戦し、中国人民解放軍はインド軍を圧倒して優位に戦争を進めたものの、インドに侵攻するのは避けて撤退した。同月にキューバ危機が発生すると、中国はソ連がアメリカの帝国主義に屈服したとして厳しく非難した。1963年6月に中国共産党はソ連共産党に対して国際共産主義運動の総路線についての提案を発表し、全面的な中ソ論争に突入した。
1969年3月に国境沿いに位置するダマンスキー島(珍宝島)を巡って中ソ国境紛争が発生し、同じ陣営同士での核戦争が発生する恐れもあった。ベトナム戦争でアメリカが南ベトナムの支援に参戦すると、中国とソ連は北ベトナムを支援したが、結局協力せずに支援合戦の状態になった。
中国はソ連を牽制するべく西側陣営の盟主であるアメリカに接近し、1971年10月に国際連合総会決議(アルバニア決議)で中華民国と安保理常任理事国を交代した。1979年1月にアメリカと中国は外交関係を樹立したが、この両国が接近した事で北ベトナムは中国に不信感を持った。これで北ベトナムの外交はソ連に対して友好的になり、1975年4月に北ベトナムが勝利して統一された。
1978年1月にベトナムがカンボジアで恐怖政治を実施するポル・ポト政権を攻撃し、1979年1月に独裁政権を終結させたが、この戦争は親中派のポル・ポトと親ソ連派のベトナムが交戦する東側陣営同士の代理戦争の様相を呈した。同年2月に中国がベトナムに侵攻する中越戦争が開戦し、ベトナムはこれを返り討ちにした後、中国と共に勝利宣言を発出して戦争を終結させた。
その後の中露関係
1991年8月にソ連8月クーデターが失敗に終わって同年12月にソ連は崩壊し、同月に後継国のロシア連邦が成立して冷戦は終結した。エリツィン政権での不況となってアメリカに対する敵対感情が強まり、プーチン政権で資源の開発や軍拡などで超大国に返り咲こうとした。ブッシュ政権のアメリカとアフガニスタン紛争・イラク戦争で対立し、他にもウクライナに対して圧力を強めた。
中国は市場経済を導入しながら未だに党の一党独裁を継続し、1997年7月に香港が返還されるのを前後して経済発展が進んで国内に格差が拡大した一方で、軍拡によって極東・東南アジアに対して覇権の拡大を進めた。2001年7月に中露善隣友好協力条約が締結されると、この条約は先述の中ソ友好同盟相互援助条約に取って代わり、両国関係を発展させる基礎となった。
中国・ロシアの動きにオバマ政権のアメリカはアジア・ヨーロッパ方面で権勢するが、ISの活動・リーマンショック(2008年9月)・アラブの春(2010年12月)に乗じ、胡錦濤・習近平政権の中国は更に海洋進出を拡大させた。ロシアはシリア内戦にISを打倒するべくアサド政権側に与して参戦し、中東で台頭するイランと中国・ロシアは両国関係を強化してアメリカを牽制している。
ミュンヘン安全保障会議
2020年2月にドイツのミュンヘンでミュンヘン安全保障会議が開催されたが、この会議ではアメリカとヨーロッパの国際関係が更に険悪化した事が最も浮き彫りになっており、産経新聞も「アメリカの国務・国防両長官が中国・ロシアの脅威についての対応でヨーロッパに結束を求めたが、イギリス・フランス・ドイツは応じず、米欧同盟の亀裂が露わになった。」と報じたほどであった。
ロシア・ウクライナ戦争
2022年2月にロシア・ウクライナ戦争が開戦し、この戦争で疲弊するロシアは経済・技術・外交でこれまで以上に中国に頼らざるを得なくなり、現在のロシアはあらゆる面で中国に縋る側となっている。しかしロシアは依然として世界最大の核保有国と共に、主要な食糧・エネルギー生産国である事から、現状としては中国の属国と呼ぶ事はまだ出来ない。アメリカが主導する世界秩序に対抗する中国にとって、ロシアは今でも戦略的に必要な存在と言える。
対立の影響
ここにある国でも殆どがソ連と友好関係にある国だった。
アルバニア
数少ない中国と友好関係にあった国で、1971年10月に国際連合総会決議で中華民国を追放させた国である。1976年9月に毛沢東が死去した後は、中国との外交関係が悪化して孤立する。
ルーマニア
中国・ソ連と友好関係を築きながら、西側諸国に接近して支援金を引き出した。
アフガニスタン
親ソ連派のアフガニスタン民主共和国(人民民主党政権)に対し、親中派のアフガニスタン共産党とアフガニスタン解放機構がムジャヒディンと共にゲリラ戦を実行した。これに続いたアフガニスタン・イスラム国やその下でも人民民主党の流れを汲むイスラム民族運動(所謂ドスタム派)が参加していた事からムジャヒディンから距離を置き、そのままゲリラ戦を続けて政府と対立した。
ソマリア
1978年3月にオガデン紛争でエチオピアに敗戦した後、モハメド・シアド・バーレ政権はソマリア民主共和国をそれまでの親ソ連路線から親中路線へ転換し、親ソ連派のエチオピア人民民主共和国と対立する。これに反発したソ連派は1978年4月にクーデターを起こすも、政府軍に鎮圧された事で失敗に終わり、1981年10月にソマリ救済民主戦線を結成してソマリア内戦に突入した。
1991年1月に反政府勢力である統一ソマリ会議によってバーレ政権が崩壊した後、社会主義革命党の残党はソマリア国民戦線を結成して更なる内戦の激化を引き起こす。2012年11月にソマリア連邦共和国が成立した時、救済民主戦線はプントランド・国民戦線はジュバランドとして無政府状態を解消するべくそれぞれ過去の遺恨を水に流し、揃って連邦に加盟する事となった。