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大野治長の編集履歴

2024-06-07 15:34:21 バージョン

大野治長

おおのはるなが

大野治長は、安土桃山時代~江戸時代初期に活躍した武将。官位の従四位下修理大夫から"修理"とも。

プロフィール

生没年:1569年(永禄12年)〜1615年(慶長20年)

通称:修理

極官:従四位下修理大夫


父:大野定長

母:大蔵局

弟:大野治房、大野治胤(道犬斎)、大野治純


主君:浅井長政柴田勝家(織田信長)→豊臣秀吉豊臣秀頼


概要

京都出身とされるが丹後近江さらに尾張の出身とする異説もありはっきりしていない。


母の大蔵局は、北近江の戦国大名・浅井長政の正室であるお市の方の侍女を務めていた。

このため、息子の治長も浅井三姉妹と共に長政の居城である近江国小谷城で過ごし、特に同い年の茶々とは実の兄妹の様に育ったとされている。


のち長政はお市の兄である織田信長との同盟が決裂し、信長に敗れ父の浅井久政と共に自刃する。のち、お市は柴田勝家と再婚したため貫一郎も母や茶々らと共に越前に赴く。勝家とお市が羽柴秀吉に敗北して自害した後は、茶々や大蔵局と共に秀吉の元へと渡る事になり、治長は後に3000石の馬廻衆に取り立てられる。

またこの時、同じく秀吉の馬廻衆に取り立てられた真田信繁薄田兼相と関わりを持つようになったとされており、後の大坂の陣では共に豊臣方として徳川方と戦う事になった。


天正17年(1589年)には和泉国佐野と丹後国大野で併せて1万石の大名となり、警個番二番隊長になる等、かなり異例と言える出世を遂げている。また文禄3年(1594年)には伏見城の普請に携わっている。

朝鮮出兵の際には、名護屋城にまで出陣しているが、大陸にまで乗り込む事は無かった。


秀吉の死後から関ヶ原の戦いにて

秀吉が亡くなり、その正室の高台院が従者と共に大坂城を去った後は、秀吉の後継者たる秀頼の側近という重要な地位を与えられ、淀殿と呼ばれる様になった茶々や母の大蔵局、兄弟達と共に権勢を振るう事になる。

しかし、慶長4年(1599年)の10月、五大老の前田利家の嫡子・前田利長や五奉行の浅野長政と共に徳川家康暗殺疑惑事件における首謀者の一人として嫌疑が掛けられ、下総結城への流罪となってしまい、大坂城から離れる事になる。


しかし、父の代から対立していた利長はともかく、治長と長政の二人までもが本当に家康の暗殺を目論んでいたかは疑わしい部分があり、後に家康に罪を許された上に加増されている事からも、暗殺に関与していた可能性は限りなく低いといえる。

また、当時反徳川派の筆頭格であった石田三成が、自らを対象とした襲撃事件による不祥事から五奉行を解任されて豊臣家での立場を失いつつあった事で、挙兵するのに邪魔な存在である非戦派の治長や親徳川で元々自身と極めて仲が悪い長政を追い落とす為に仕組んだ謀略ではないかという説がある。


慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの時は、やむなく東軍側の武将として戦う事になるも、その戦いで武功を挙げた事が汚名返上となる形で、家康から罪を許される事になり、所有領も15000石にまで加増される。

戦後は、家康の命で「豊臣家への敵意なし」という書簡を持って、使者として大坂城へ向かう事になり、そのまま大坂城へ残る道を選んだ治長は、主導権を握っていた三成が処刑された事もあって、以前よりも強い発言権を持った。


方広寺の事件から大阪の陣

慶長19年(1614年8月における方広寺の鐘銘を巡る事件において、交渉役を務めた片桐且元は、豊臣家を存続させる為に

  • 「秀頼の江戸での参勤」
  • 「淀の人質として江戸に移住」
  • 「秀頼の大坂城からの退去及び国替え」という三択を提案する。

治長もいずれかを選ぶべきだと説得した。聡明であった秀頼も三択のいずれかを選ぼうとしていたが、淀殿や反徳川派の家臣達は激怒して、あろうことか交渉役を務めていた且元を謀反人と見なしてしまう事になり命まで狙われ、これに且元の弟の片桐貞隆が応戦したことで大坂城に居られなくなった片桐兄弟は大坂城を退去。

これが原因で淀殿の従兄弟である織田常真など一部の武将も豊臣家を見限り、事態を知って呆れた家康も、もはや交渉の余地は無いと見なし、後の大坂の陣へと発展する宣戦布告を行う事になった。


且元追放後、治長は実質上豊臣家を主導する立場となるも、徳川軍との徹底抗戦を主張する淀殿は、大坂城に残されているを使って、真田信繁・毛利勝永後藤又兵衛長宗我部盛親明石全登といった大勢の浪人達を招きいれ、武器の調達等も行わせていた。

但し毛利輝元島津家久(忠恒)・上杉景勝佐竹義宣といった主だった元西軍の大名達が一切味方につかず、更には総大将に任命される予定であった織田信雄ですらも徳川勢に走ってしまった事から、徳川軍に勝利するのは絶望的と見た治長は、何とか和議によって事を収めようとしたのだが、人生の巻き返しを狙っていた浪人達や主戦派からは疎まれてしまう。

やむなく治長は指揮官を担う事になるも、浪人達の要求を少しでも受け入れられるよう淀殿や大蔵局の説得に苦心させられ、更には真田丸の築城を巡って信繁と又兵衛の二人が諍いを起こした事(信繁が馬城を築こうとしていた又兵衛を無視して、彼が用意していた資材を勝手に撤去してしまったのが原因)にも勝永と共に頭を悩まされる等、苦労が絶えない状態だった。

そして、実際に「大坂冬の陣」に参戦し、一度は撃退したかに思われたのだが、圧倒的な徳川軍の軍勢の前に豊臣軍は追い込まれてしまい、更には新開発された大砲によって大坂城にまで直接被害が及び、戦う事の出来ない民衆にも被害が出た結果、淀殿や秀頼を説得して、和議に持ち込む。

しかし、主戦派の多くからは反感を買ってしまう事になり、主戦派の一人で実の弟でもある大野治房からは和議の締結後に闇討ちを受けてしまう等、災難に見舞われる。


冬の陣終結後、和議の条件として大坂城の外堀を埋める事を承諾するも、これが大きな仇となり、防衛の要となっていた真田丸が取り壊され、内堀まで埋められてしまった事で、治長は周囲に激しく非難されてしまい、発言力を半ば失った治長は、治房や道犬斎らの弟たちや木村重成を始めとする主戦派に主導権を奪われてしまう。

更には、増長した浪人達や主戦派が、埋め立てられた堀を勝手に掘り返し始め、更には城下町で乱暴・狼藉に走る様にまでなった結果、再び幕府に目を付けられてしまう事になり、「大坂夏の陣」を迎えてしまう事になる。


圧倒的不利な戦況の中、一時は信繁や勝永の活躍によって敵の総大将の家康を追い詰める事になるが、その首を討ち取るまでには至らず、浪人達は次々と討死。結局戦いは豊臣軍の敗北で終わり、治長は秀頼の妻で家康の孫娘でもある千姫と淀殿の妹で京極高次の未亡人である常高院)を大坂城から脱出させ、千姫には「此度の戦の責、全てはこの大野治長にあり、首謀者である自らの切腹を条件に、秀頼公と淀殿の助命を求む」という嘆願書を託す。

千姫と初の脱出後、淀や秀頼、大蔵局、何人かの兵士や女中達と共に大坂城の倉庫にまで追い詰められるが、「落城寸前にまで抵抗し続けた以上、もはや助命は認められない」と、家康に判断を任された徳川秀忠の意向もあり井伊直孝らによって倉庫に鉄砲の弾丸が撃ち込まれる形で助命嘆願は拒絶され、最後は母・大蔵局や淀殿や秀頼と運命を共にする形で自刃した。


弟たちの運命はそれぞれ異なり、治房は兄と違い大坂城から脱出したがその後は不明。大坂の陣終結から24年、島原の乱終結からでも11年後の慶安2年(1649年)になってもなお治房の捜索が行われている。道犬斎はかねてより堺商人たちから恨みを買っていたため捕縛後は堺で処刑された。治純は兄たちと袂を分かち徳川家に仕えていたが治長の死から1年後に自害したとされる。


人物

武将として取り分けて優秀という訳ではなかったらしいが、秀吉が東海道地方へ鷹狩りに出かけた際、それに同行している事から、少なくとも主君である秀吉からはそれなりの信頼を得ているようである。

一方、茶人としての一面もあったとの事で、かの有名な千利休の弟である古田織部に師事し、奥義を極めるまでに茶道を学んだとされている。


秀吉の重臣である石田三成からは嫌悪されていたとされており、前述通り、徳川家康の暗殺計画の首謀者の一人として疑われたのも、三成の謀略ではないかと家臣達の間で噂されていた程である。特別な出自でない身でありながら大名にまで出世していき、伏見城の普請や後継者となる秀頼の側近を任され、淀殿からの信頼まで得ていた治長は、自らを豊臣家の第一の忠臣と自負していた三成にとって嫉妬の対象であり君側の奸に見えたとしてもおかしくは無いのかもしれない。


暗殺の容疑を掛けられながらも、関ヶ原の戦いでの功績を認めて許した家康からは、豊臣家最後の忠臣として高く評価されており、治長の死後、徳川の記録『春日社司祐範記』では、「大野修理沙汰して最後に切腹なり。手前の覚悟比類なし」と賞賛さえ贈られている程。


茶々(淀殿)との関係

大野治長に関して最も有名となるのは、茶々こと秀吉の側室である淀殿との関係性である。

淀殿とは、乳兄妹として共に育った間柄で、更には彼女が浅井から柴田、豊臣と渡っていく際も、それに従う形で共に渡っているので、二人の関係は信頼関係は非常に厚かったとされており、後に治長が家康の暗殺容疑が掛けられてしまった際も、淀殿が必死に否定して治長を庇ったとされている。

その為、当時の人々からは、淀殿と密通しており、彼女の生んだ鶴松と秀頼の二人は治長との間に出来た子ではないかと噂され、記録等にも残っている。

噂の根拠としては、正室や他の多くの側室達が誰も秀吉の子を身篭らないにも拘らず、淀殿だけが子供を二回も身篭り生んでいた事が当時より怪しまれており、一説によると、秀吉は幼少期におたふく風邪を患ってしまった後遺症で、生殖能力が失われてしまったのではないかとされている。

また、治長は小柄な秀吉とは対照的にかなり大柄な体格をしていたらしく、同じく大柄な体格だったと言われている秀頼と共通している。ただし淀殿の父である浅井長政は秀頼と同じ巨漢であり、淀殿も母のお市も当時の女性としては大柄の部類であるため秀頼は母や祖父母に似ただけと言う指摘もある。

否定的な意見としては、記録によって密通相手が違う人物になっている事(後述)、同じく史料によって記述がバラバラで一貫性が無い事、豊臣家の事情を知るはずのない外部の者の史料が多い事、中には秀頼の死後から半世紀も経て書かれた記述まで根拠として扱われている事、そもそも治長と淀の密通をどうやって知ったのかが書かれていない事などがある。

秀吉に生産能力が失われたと言う主張も、これまで伝承とされてきた淀殿以外の秀吉の子(石松丸)の実在が明らかになった事で覆されつつある。

なお、秀頼のもう一人の父親説には、石田三成が挙げられているが、三成は軍監として朝鮮出兵に参戦している事から辻褄が合わず、否定されている。


関連タグ

茶々/淀殿 豊臣秀頼 豊臣秀吉 太閤記 真田丸

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