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9600の編集履歴2024/12/18 20:04:23 版
編集者:mdjdgt
編集内容:設計と構造 の内容を一部変更・追記

9600

きゅうせんろっぴゃくまたはきゅーろく

整数のひとつ。pixivでは鉄道院(後の国鉄)が設計した貨物用蒸気機関車を指すため、その解説を行う。

概要

鉄道院1913年(大正2年)より製造を開始した貨物用蒸気機関車が9600であり、実は有名な車両は2代目である。

愛称は『キューロク』または『クンロク』。後年メディアによって『山親爺』という愛称で呼ばれたこともある。

この機関車は四国を除く全国で活躍、鉄道院(のちの国鉄)の生産分だけで770両が生産された。

なお、樺太庁鉄道向け14両、台湾総督府鉄道向け39両、北海道炭鉱鉄道向けも含めるとそれ以上になる。製造メーカーは民間ばかりでなく、鉄道省が直営で製造された車両も存在した(小倉工場製)。

鉄道省向けでもD50形と並行して増備が続けられ、本州以南向けでも当初より自動連結器を装備していた車両も存在する。鉄道省向け以外の最終製造年はさらに後で、夕張鉄道の個体が1941年(昭和16年)である。

設計と構造

従来の狭火室を棄て、広火室を動輪上に置く構造を取ることで、ボイラを飛躍的に大型化した。ボイラ中心高は2591mmと非常に高い(C62の登場までは国内最高)が、実際の機関車重心高は8620形のほうが25mm程度高い。動輪が小さいため、回転部質量を釣り合わせるだけで動輪が釣合錘で一杯になり、往復部質量は1%も釣り合わされていない。そのため、機関車の前後動の大きさを表す指標である往復部不釣合質量/機関車重量の比率は1/166と大きく、乗り心地はひどいものであったと思われる。また本機は設計上のミスで、左側クランクが先行する設計となっていた。普通、機関車は右側クランクが先行するように設計されていたため、工場の専用機器もそのように造られており、9600は修繕について、工場からかなりの不満を買ったそうである。

運用

当初は、幹線の貨物列車牽引および箱根越えの補助機関車として使われていたが、D50形(9900)やD51形が登場すると、亜幹線の貨物・旅客牽引に従事した。特に北海道と九州での活躍が顕著で、ともに運炭列車を牽引するのに役立った。中には炭鉱鉄道が自社発注や国鉄から払い下げを受けるほどであった。また、線路規格が低く軸重制限の小さい地方路線でも使用された。この種の中型貨物機関車の後継車両は国鉄もあまり力を入れなかった(C57のボイラをD51の足回りに載せたKD55形というのも計画されていたが)ため、国鉄におけるSLの運用終了まで使用されることになった。最後の定期運用は、1976年(昭和51年)3月2日の追分機関区の入換仕業である。

国外(外地)の同型機

また、台湾総督府鉄道所属機は800形→台湾鉄路DT580形として39両が製造され戦後も活躍したが(戦後に事故廃車になった2両分の部品を組み合わせ再生された車両もある)、その一部はなんとアメリカ製(アメリカン・ロコモティブ、以下アルコ社)まで存在しており、600形→台湾鉄路DT560形とされ14両が製造された。これは、国内各社の生産が追いつかず、やむを得ず図面をアルコ社に提供して生産したものである(アメリカ製の9600も台湾で1両保存されている)。

なお、アルコ社ではこの図面でそのまま製造したわけではなく、整備水準の低い軌道を走りやすいよう諸元は一致するアメリカ流儀の構造に改めた図を作り、製作している(外観も若干アメリカ流儀にモデファイされている)。

そのためオリジナルでは板台枠であった主台枠は棒台枠(アメリカ形の標準は鋳鋼なのでおそらく鋳鋼棒台枠)、火格子も増大、カウンターウェイトの量も変わっているようである。「揺れが少なく、投炭が楽」という当時の乗務員の評判はそれでないと説明がつかない。一般型より評判が良かったせいか、日本型ばかりの中、完全に異端といっていい存在にもかかわらず台湾蒸機時代末期まで在籍していた。

戦時中の供出

193739年(昭和12~14年)にかけて、陸軍の命令で1435mm(標準軌)に改軌された同機が251両も戦地(中国大陸)に供出され、二度と日本に戻ることはなかった

大陸では150両が華北交通に編入され、満鉄式にソリホ形と命名されて運用された。残る101両は華中鉄道ソリロ形として運用されたとされ、戦後中国に引き継がれた時点で80両が現存していたという。ソリホ形の大部分は陸軍で装甲列車の機関車として使用されていたといわれており、第十一装甲列車隊の記録にソリホ形の記述がある。

この中にはトップナンバーである9600号機も含まれており、現在は2両のみ北京の中国鉄道博物館に展示されている(標準軌仕様の現地形式KD5(KD5-373)と再狭軌化した同KD55が各1両)。

この標準軌改造には、9600のオーソドックスな板台枠構造が偶然にも役に立っている。

板台枠の定義は用途にもよるが19~51mm程度(日本では標準的に25mm=1インチ)の鋼板で作った台枠に、別体の軸箱守を貼り付ける形を取るが、この軸箱守は通常、台枠体の内側に付ける。

これをバネ機構と共に左右逆に、台枠体の外側へ付けると、本体を崩さぬまま日本狭軌と標準軌の軌間差分の370mm(バックゲージ・軸箱基準)近い軸箱位置の変更が可能であった(多少まだ差分に不足があるが、別手段で埋め合わせられる程度の差であった。これは当時日本国内の標準軌改築計画が存在していたための「隠し設計」であった、とする説も存在する)逆にC51では軸箱守が台枠にはめ込む形であったためこの手法は取られず、台枠を一旦分解している。

中国へ渡った標準軌改軌組の一部は、再度狭軌化(1m軌間)されて雲南省の山奥で走っていた。ランボードは機体によっては拡軌のさい左右に継ぎ足されて広がったものもあり(改造工場でまちまち)、再度の狭軌化にさいしては、端梁を真ん中あたりで縮小分切り取る形をとったものが今保存されているKD55-579である。外形の大体はもとの日本狭軌仕様に近くなっているはずが、真正面だけ印象が違うのはこの再改造のさいの加工による。

さらに1941年(昭和16年)に除籍された4両も、追加の供出として中国に送られたと見られる(前述の保存機の車軸に、当該機の刻印が残っている)。

なお、樺太庁鉄道の国鉄編入後に内地から転出した6両が、終戦間際のソ連軍侵攻により元庁鉄の14両と共に接収され、そのまま鉄のカーテンの向こうに消えていった。なお、戦後の北海道内には数両樺太仕様に近い姿の個体が存在していたが、制海権喪失による発送流れがそのまま居座ったのではないかという説もある(スハ32形客車チキ2500形長物車など、同様の発送流れが国鉄車として編入されたケースが存在している)。

余談

  • 初代は9550形に蒸気過熱器を取り付けたものであり、9550形の設計上の不具合が取りきれず、すぐに9580形に改められた。この形式は主として北海道に存在し、あまり使用されることなく第二次世界大戦後間もなく廃車された。
  • 8620同様、ナンバーの付番がややこしいことでも有名で、9600号機がトップナンバー、9699号機が100号機目で、101号機目は19600号機となる。ちなみに、ラストナンバーは79669号機である。そのため、方程式は 『万の位の数字×100+下二桁の数字+1=製造順』 となる。このややこしいナンバー付番は18900(C51形)や9900(D50形)まで続くことになる。
  • 変わったところでは陸上自衛隊に所属していた車両がいた(9677号機)。1959年に国鉄で廃車後、陸上自衛隊第101建設隊(陸上自衛隊唯一の鉄道部隊。東立川駐屯地で発足後、習志野に移転)に所属していたが、所属部隊がわずか6年で解隊されたのち、1970年に古河駐屯地で解体された。
  • 北海道で使用された車両の中には、運転台を右に改造した車両が(49615号機 49671号機 49698号機など)存在した。函館港で青函連絡船の航送車両の入れ換え作業を行う際に、線路が右に大きくカーブした有川さん橋では右運転台のほうが安全で効率的と判断されたためである。運転台とともに逆転器も右に移設され、運行中何度も操作する事を考慮して動力式となった。このうちの1両(49671号機)は栃木県真岡市に保存されている。
  • 戦前、交通博物館の1階中央ホールにて1/26スケールの銀製の模型が展示されていたことがある。ナンバーは「9600」で、1号機製造の1年後の1914年1月に製造。当時の川崎造船所より鉄道省に寄贈されたもの。現在も鉄道博物館にて保管されている。

保存機

数が多いこともあり、全国各地に保存されている。

しかし、蒸気機関車として動態保存されたものは存在しない、圧搾空気で動かすもののみである。

静態保存としては国外でも使用されたこともあり、台湾総督府鉄道時代の機も台湾で保存されている。代表的な機として以下の機が挙げられる。

9608号機

東京の青梅鉄道公園に静態保存されている。9号機で初期型である。初期型特有のランボードからキャブへのラインがS字型になっているのが特徴(中期型以降は乙の字型)

9633号機

34号機。京都府京都市京都鉄道博物館(旧・梅小路蒸気機関車館)に静態保存されている

29612号機

213号機。福岡県志免町に保存されていたが放置状態に近く老朽化のため解体処分の危機になり、有志の働きかけで大分県玖珠町に譲渡された。

整備復元ののち、豊後森機関庫前に移設保存。前照灯の点灯が可能。

49671号機

472号機。長らく栃木県真岡市の公園で保存されていたものを整備し、真岡鐡道の「SLキューロク館」で展示。圧縮空気を用いて稼働することも可能。右運転台に改造され、現役時代は五稜郭機関区所属で函館港で青函連絡船の航送車両の入れ替え作業に従事していた

49616号機

元北海道岩見沢機関区所属で 現在は大井川鐵道千頭駅構内で保存。つらら切り、切り詰めデフ、回転式火粉止を装備した北海道仕様であったが、2014年夏からのきかんしゃトーマス運転にあたり本機が『トーマス』に登場するD51がモデルのヒロに改装された。

49648号機

北海道枝幸郡中頓別町の寿公園に保存。追分機関区で使用されていた国鉄最後の蒸気機関車の生き残り。もともとは同じく追分機関区にあった79602号機(予備機として一番最後まで現役だった機)も追分機関区で保存されていたが、機関区の火災で焼失してしまった。

59634号機

535号機。福岡県北九州市九州鉄道記念館に保存。ナンバーが「ごくろうさんよ」と語呂合わせがよい。なお、当機は生粋の九州のカマではなく、米坂線からの転属機である。

DT609

台湾総督府鉄道828→台湾鉄路。旧高雄港駅跡・打狗鐵道故事館に保存。外観は通常型。

DT561

台湾総督府鉄道→台湾鉄路。いわゆるアメリカ生産型の唯一の保存個体。苗栗車站鉄道公園に保存。

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蒸気機関車 8620

筑豊-九州での主な活躍地

夕張-北海道での主な活躍地

運炭

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