概要
「ぐうの音も出ないほどの聖人」の略、主になんJ界隈で使われる。
讃えるに値するほどの素晴らしい心がけを持った人物を指す。
ぐう聖とされている選手(順不同)
フレデリク・セペダ(元巨人)
キューバの至宝にしてNPBのネタ助っ人。
高齢での来日だったため守備打撃ともに精彩を欠いており、2年目はほぼ2軍に幽閉されていた。
しかしキューバリーグが終わったらすぐに巨人のキャンプに合流、二軍でも練習は真面目に参加、若手選手にコーチのようにアドバイスしていたため、同じ巨人ネタ助っ人のフアン・フランシスコやキューバ出身で2年目に来日しなかったユリエスキ・グリエル(元DeNA)と比較され「成績こそ悪いが人間性は最高」と評され愛されていた。来日時の成績こそ散々なものだったが、二軍に落ちても悪守備をからかわれても腐らず真面目に野球に取り組んでおり、また同時期に巨人に在籍したフランシスコのぐう畜エピソードの豊富さもセペダの評価上昇に一役買った。
三浦大輔(DeNA一軍監督)
1991年に横浜大洋ホエールズ時代に入団し、横浜ベイスターズ時代の1998年には日本一を達成。その後チームは暗黒時代を迎え、2008年オフにFA宣言。阪神が興味を示しファンは移籍を覚悟するもファンの声に応え残留。貧打で負けても「点を与えた自分の責任」などとチームメイトを庇いつつ、25年の現役生活を横浜一筋で終えた。
また、自身のサインの転売について「もっと書こうと思うよ。売るのも買うのもバカらしくなるぐらい書こうと思う。『えっ?三浦のサイン買った?アホやなぁ・・・球場行ったらナンボでももらえるのに』みたいな」と発言するなど、常にファンサービスを忘れないナイスガイである。
チームメイトの信頼も厚く、引退試合当日のブログの写真には一軍メンバー全員に加え故障中の須田幸太も収まっていた。
李承燁(元ロッテ、巨人、オリックス)
2004年に千葉ロッテマリーンズへ入団し初来日。
その後は読売ジャイアンツを経て2011年にオリックスバファローズへ移籍。後半戦で大活躍したにもかかわらず、シーズン前半の不調の責任からか「自分が居てはチームの足手まとい」と自ら2年契約を破棄して帰国した。
また、巨人時代にも「二軍でも腐らず、チームメイトを焼肉に連れていってくれる」という証言が報告されている。
イマイチな成績で帰国したあげくNPBの悪口を広めたことで韓国国内でも批判の声が上がった金泰均との対比されることもあり、韓国でもぐう聖の呼び声が高い模様。
ボビー・ケッペル(元日本ハム)
2010年に北海道日本ハムファイターズへ入団、2年連続二桁勝利を挙げるなど活躍。
打線を組めるほどの聖人要素満載のエピソードの数々から、当初名前をもじって「ケツペロ」と揶揄していた一部のなんJ民も沈黙せざるを得なくなった模様。退団時には栗山監督が「何とか怪我の癒えた状態で送り出せてよかった」とコメントしていた。
- 死球を与えた際には、帽子を取り一礼という日本式のやり方で打者に詫びる。
- 東日本大震災に心を痛め、家族を呼び寄せてチャリティー試合前には志願してスピーチ。
- 球団の病院訪問メンバー(主に子供たちへの激励)を外された事に憤慨、直訴して以降は定期的に訪問。
- 試合を観戦した障がい者たちと対面しガッチリと両手で握手、サインボールを手渡す。
- 右肩故障からの復帰登板後に勝利すると、同じ故障でリハビリ中の斎藤佑樹にウイニングボールを渡して激励。
- 連敗中のバス移動ではピザを振る舞う(チームメイトに分け与えたため、自身は食べられなかったという)。
- スポーツ紙の番記者にも、退団の際には自身の記事について感謝を述べる。
- その後シンシナティ・レッズとマイナー契約。日本球界での実績からかメジャー先発間違いなしとされたが、同時に父が癌に侵された事から、家業の造園事業を継ぐためにあっさりと引退。キャリアよりも家族を優先させた。
ケーシー・マギー(元楽天、巨人)
2013年に楽天で、2017~18年に巨人でプレー。試合中はエキサイトする場面もあったが、その裏では人格者で知られる。
- 自身の子が先天性の病気を持つため小児医療への関心が高く、啓蒙活動も行っている。車椅子を寄付したり病気を持つ子どもたちを試合に招待した。
- 復興のため、故郷でもない宮城県に1000万円以上も寄付。
- 2017年オールスター第1戦(ナゴヤD)のセリーグ写真撮影の後、ヤクルトから唯一出場した小川泰弘が戸惑っていたところ声を掛けて肩を抱く。
- 代打起用が続き不貞腐れていた村田修一が「暇ー!」と叫んだ件で、殊勲打を放ったマギーは「ムラタは素晴らしい選手。代打で彼が四球を選んで繋いでくれたから、僕は打つ機会を得たんだ。僕がこうして仕事を出来るのはムラタあってのことだ」とコメント。
梨田昌孝(元近鉄、日本ハム、楽天監督)
- 近鉄球団の消滅が決定した2004年の出来事。近鉄最後の試合のミーティングにおいて、梨田は監督として「みんな、胸を張ってプレーしろ。お前たちがつけている背番号は、すべて近鉄バファローズの永久欠番だ」と語り、悲しみや今後への不安を抱きながらプレーに臨む選手たちを鼓舞し勇気付けた。これは今でも球史に残る言葉として語り継がれている。
- 楽天監督就任直後の秋季キャンプで、その年戦力外となっていた選手の入団テスト結果をファンの目の前でサプライズ発表し、全員の入団を決定。
- 日本ハムは栗山監督が長期政権を敷いているため、梨田は楽天の監督を務める間は「先代の日ハム監督」という立場であった。それ故、自身の日ハム監督時代を支えた選手達(飯山裕志など)が楽天監督在任中に引退することも多かったが、敵チームの監督という立場ながら殆どの選手にコメントを寄せる。
大瀬良大地(広島)
以下のエピソードから「良い人」のイメージが強い。
- 藤浪晋太郎に死球をぶつけられた時もにこやかに対応。
- 自らが打ち込まれた時はベンチでグラブを三度叩きつけようとして三度我慢し道具を大切にする。
- 2018年6月22日の阪神戦で両リーグ最速の10勝目をマーク。自身のそばにメガホンが投げ込まれる事態も「買ったお金がもったいなあと思っていました」と大人の対応。
ぐう聖と見做されている選手
ケビン・メンチ(元阪神)
成績こそ散々だったが慈善事業への積極的な参加や練習態度は評価が高く、阪神の歴代外国人選手の中でも人間性はトップクラスと言われる。
長野久義(広島)
広島からFAで加入した丸佳浩の人的補償で広島へ移籍することになり、巨人入りの経緯から引退覚悟の拒否も考えられたが、実際の内容は
「3連覇している強い広島カープに選んでいただけたことは選手冥利に尽きます。 9年間応援してくださった ジャイアンツ ファンの皆様のおかげで苦しいことも乗り越えることが出来ました。ありがとうございました。」
という品のあるもので、ぐう聖ぶりを評価する声が見られた。
ウィリン・ロサリオ(元阪神)
日本とは短い縁となったが、持ち前の陽気な性格で監督やチームメイトらを勇気づけようと努めた。メンチ同様に人柄面では好評で、豪雨被害に対しては個人で100万円を寄付するなどした。
平田良介(中日)
普段は温厚だが、ダヤン・ビシエドに差別的な野次を飛ばした客に対して血相を変え大激怒。本気で仲間を想う男として知られるようになった。
堀内恒夫(元巨人監督)
現役時代はその実力とは裏腹に悪太郎、甲斐の小天狗の異名を持つほどヤンチャかつ傲岸不遜で、あまりの悪童ぶりから王貞治に制裁を受けたほどであった。
しかし、2004年に監督に就任すると、起用に応えられなかった内海哲也に対し号泣するほどの労いの言葉をかけるなど、情に篤い面も知られるようになる。またその内海が炭谷の人的補償で西武へ移籍した際には、感謝と労いの言葉をかける一方で「西武に骨を埋めるつもりで頑張れ」と巨人への未練を断ち切るよう諭しており、移籍先への敬意をも欠かさない愛情溢れるコメントは功労者を失った悲しみに暮れる巨人ファンの感動を呼んだ。さらに自身のブログで読者の質問やコメントに対して非常に丁寧な返信を行う点も、なんJでは評価が高い。
森本稀哲(元日本ハム、横浜・DeNA、西武)
幼少期に汎発性円形脱毛症を患う。現在は治癒しているものの今でもスキンヘッドにしているのだが、それは同じ病気に苦しむ人々に勇気を与えたいという思いからである。
プロ入り後は先輩の新庄剛志に感銘を受け、プレーヤーとしてもムードメーカーとしても日本ハムの優勝に三度貢献。
移籍先のDeNAと西武で不振に陥り二軍生活であっても腐らずチームを鼓舞。引退試合の「稀哲さんに繋げ」は彼の人望を示すエピソードとして有名。引退後は怖くないOBとして知られる。
山下大輔(元横浜大洋)
社長の御曹司で慶応ボーイという恵まれた経歴から「グラウンドの貴公子」と呼ばれた。しかしそれでいて尊大なところは全くなく、寧ろ場を盛り上げるためなら自身の頭髪をギャグにすることも厭わない明るい人格者として知られる。横浜ヘッドコーチ時代には監督の権藤博や選手たちから全幅の信頼を寄せられ、監督時代では成績こそボロボロだったがチーム内の不協和音の解消に尽力した。また現役時代にチームメイトの高木豊が「オレらが点をとってもピッチャーがこう打たれちゃあなぁ」とぼやいた際、「みんな一生懸命やっているんだから、そういうことは言うな!」と一喝したという逸話がある。