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概要編集

本名:グレータ・ルヴィーサ・グスタフソン(1905年9月18日~1990年4月15日)


スウェーデン出身の女優

サイレント映画期ならびにトーキー映画初期にハリウッドで大スターとして活躍した。

アカデミー主演女優賞へのノミネートが3度あり、1954年にアカデミー名誉賞が贈られた。

人嫌いで、若くして引退し、隠遁生活を送った。

「史上もっとも美しい女性」として『ギネスブック』に掲載されたことがある。


来歴編集

1905年9月18日、ストックホルム(スウェーデン)で三人兄妹の末子として誕生。両親は労働者階級であった。暮らしは貧しく、スラム街にある3室のアパートで育った。幼少時から演劇に興味を持つ。

1919年、父がスペイン風邪に罹患し失業

1920年、父が死去。理髪店に就職したが、デパート店員に転職し婦人帽子売り場に配属された。デパートのカタログに掲載する帽子のモデルを務めるようになる。


1922年、デパートの宣伝フィルムを見たエーリック・ペチュレル監督が『放浪者ペッテル』に女優として起用。王立ドラマ劇場付属演劇学校で演技を学ぶ。

1924年、マウリッツ・スティッレル監督の『イエスタ・ベルリングの伝説』で主演女優に抜擢された。

1925年、アメリカの映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と契約し、渡米。MGMの手配で歯列矯正ダイエット


1926年、モンタ・ベル監督の『イバニエスの激流』でレオノーラ役が評価され、フレッド・ニブロ監督の『明眸罪あり』の主演女優に抜擢。クラレンス・ブラウン監督の『肉体と悪魔』で共演したジョン・ギルバートと同棲。

1928年、クラレンス・ブラウン監督の『恋多き女』に主演し、トップスターの座を不動のものとした。

1930年、初のトーキー映画となるクラレンス・ブラウン監督の『アンナ・クリスティ』に主演。宣伝コピーは「ガルボが話す!」で、披露した声はハスキー低音であった。

1931年、ジョージ・フィッツモーリス監督の『マタ・ハリ』に主演。

1932年、エドマンド・グールディング監督の『グランド・ホテル』でグルジンスカヤ役を演じた。

1933年、ルーベン・マムーリアン監督の『クリスチナ女王』に主演。

1935年、クラレンス・ブラウン監督の『アンナ・カレニナ』に主演。代表作となり、ニューヨーク映画批評家協会賞の主演女優賞を受賞。映画は大ヒットしたが、ガルボの高額な出演料のため映画収益は圧迫された。

1936年、ジョージ・キューカー監督の『椿姫』に主演。

1937年、クラレンス・ブラウン監督の『征服』でマリア・ヴァレフスカ役を演じた。興行的に失敗してMGM最大の赤字映画となり、ガルボの高額な出演料が揶揄される。

1939年、エルンスト・ルビッチ監督のコメディ映画『ニノチカ』に主演。これまでと違い明るいヒロインを演じ、興行的に成功をおさめた。

1941年、ジョージ・キューカー監督のコメディ映画『奥様は顔が二つ』に主演。興行的には成功だったがガルボは納得できず「我が墓標」と称した。第二次世界大戦のためヨーロッパへの映画配給が困難となり、製作の取り止めが相次ぎ、ガルボ自身も女優を続ける事に見切りをつけつつあった。


1948年、『ランジェ公爵夫人』の出演契約書にサインしたが、映画は製作資金が調達できず取り止めとなった。以降、映画に出演することはなく、美術品の収集等を趣味として気楽な隠遁生活を送った。

1984年、乳癌になるが治療は成功。

1990年4月15日、肺炎腎臓疾患によりニューヨーク病院で死去(84歳)。遺産は総額32,042,429ドルで、姪のグレイ・ライスフィールドが相続した。

1999年、遺灰がストックホルム南部のスコーグスシュルコゴーデンに埋葬された。


関連タグ編集

女優 俳優 スウェーデン ハリウッド 無声映画 トーキー映画 ガルボハット

呉田軽穂:グレタ・ガルボを元ネタとした松任谷由実の別名義(ペンネーム)。

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