概要
1921年2月22日にフランス統治下で生まれる。
叔父は独立の父バルテレミー・ボガンダ、父はムバカ族の首長ミンドゴン・ムグブンドゥールーである。
第二次世界大戦で本国であるフランスがドイツに占領されたが、自由フランス軍の兵士として従軍し、第一次インドシナ戦争にも従軍。
中央アフリカ共和国の独立後は、初代大統領であるダッコに呼び戻され、軍の編成を任されることになる。
1966年に国軍参謀総長になっていたボカサは軍事クーデターを蜂起。賄賂が横行し、経済施策の失敗をしていたダッコ政権を打倒。
1967年に大統領に就任し、16も存在していた省庁のうち、14の省庁の大臣を兼任。
1972年からは終身大統領を宣言した。
クーデター当時、ダッコ政権が中華人民共和国の巨額の融資を受けたことに批判的だったボカサだったが、1976年8月には中華民国と断交して中華人民共和国に経済協力を仰ぐなど変節し始める。
9月にはリビアのカダフィ大佐と面会してイスラム教に改宗したが財政援助が滞ると、12月にはカトリックに改宗し、国名を中央アフリカ共和国から「中央アフリカ帝国」にして自ら皇帝に即位した。
1977年12月4日には国家予算2倍にあたる2500万ドルを費やしてナポレオン1世を真似た豪華な戴冠式を行い、「皇帝ボカサ1世」を称した。
なお、この戴冠式にはパウロ6世、モハンマド・レザー・パフラヴィー、昭和天皇などを招待したが、出席は断られている。
フランスからの支持と援助を受ける為に当時の大統領だったジスカール・デスタンに賄賂工作をする。これが功を奏し、フランスから皇帝として承認され、経済的支援も受かることに成功。
反対派は容赦なく弾圧した。
1979年1月に、ボカサ家が経営する会社が作製する制服を全小学生への着用するよう義務づけたことに対して反対学生のデモが勃発。
これを武力弾圧し、400人の死者を出すと、国際的に批判の声が高まり、フランスもボカサ1世を見限り、帝政打倒を画策し始めた。
9月20日、ボカサ1世のリビア訪問中にフランス軍による無血クーデターが発生。帝政は廃止になり、共和制に復帰。ダッコが大統領に再就任した。
ボカサはコートジボワールに亡命し、4年間をアビジャンで暮らす。
その後フランスに渡って、ジスカール・デスタンの政権奪還を要請したが拒否されたので、ジスカール・デスタンへの賄賂工作を告白。
デスタンの人気は急落し、1981年の大統領選挙で敗れる一因になる。これによって生まれたのがミッテラン政権である。
その後、コートジボワールに亡命し、再びフランスへ亡命した。
1986年に中央アフリカ共和国に帰国するが、入国直後に逮捕。裁判にかけられ、1987年に死刑を宣告されたが、1993年に釈放。
フランスから支給される軍人恩給で隠居生活を送り、1996年死去した。
2010年12月3日にフランソワ・ボジゼ大統領によって名誉回復が行われた、
12月18日にボカサの棲んでいた家が競売にかけられ、8200万円で落札されることになる。