南アフリカ共和国は、かつて南アフリカ北西部、トランスヴァールに存在した国家である。英称はSouth African Republicであった。1961年以降存在する南アフリカ共和国(英称:Republic of South Africa)とは別の国で英語での正式国名も異なる。
区別するために「トランスヴァール共和国」の名で便宜的に呼ばれる。
歴史
前史
1812年、ナポレオン戦争の最中にイギリスは喜望峰の近く、ケープタウンを中心に広がるオランダ領ケープ植民地を奪った。イギリスによる統治とイギリス人がケープに入植するにつれ、先に入植していたオランダ系住民ボーア人は不満を募らせていった。そして1833年、イギリスが奴隷解放を命令したことでボーア人の経営する大農園が経営危機に陥る。これが引き金となり、ボーア人たちは牛車隊を組織。ちょうどズールー王国が覇王シャカの下で大暴れしたことで現地勢力が弱体化していたオレンジ川北岸と、さらに北のトランスヴァールに移住した。なお本来彼らが目的地としていたナタールでは、ボーア人たちが一度ナタール共和国を建国したが、4年後イギリスに滅ぼされナタール植民地にされている。この移動劇は「グレート・トレック」とよばれ、ボーア人たちはヘブライ人の出エジプトのように特別なものとみなした。
建国
イギリスはナタール占領後も内陸部への影響力確保を試みたが結局1852年にサンド・リバー協定 (Sand River Convention) を結んでトランスヴァールにおいて、「ボーア人にちょっかいをかけないこと」、「黒人勢力と同盟しないこと」などを約束。ボーア人は「南アフリカ共和国」を建国した。首都ははじめ移民団のリーダーの一人ヘンドリック・ポトヒーター (Hendrik Potgieter) にちなんで名づけられたポチェフストルーム、次いでナタール共和国建国に尽力したもののイギリスによってトランスヴァールへ追われたアンドリース・プレトリウス (Andries Pretorius) にちなんで名づけられたプレトリアとされた。
しかし建国後は、他のボーア人小国家の併合や、1857年にはボーア人統一国家を作るべく初代大統領マルティヌス・プレトリウス (Marthinus Pretorius。アンドリースの息子) がオランイェ自由国 (オレンジ自由国。一度オレンジ川主権領としてイギリスに併合されたオレンジ川・ヴァール川間が1854年にブルームフォンテーン協定で独立。)を襲撃する、海を求めてデラゴア湾 (マプト湾。現モザンビーク領) 進出を試みるなど拡大路線に走る。
1859年にはプレトリウスはすでにトランスヴァール共和国大統領であるにもかかわらずオランイェ自由国から自国大統領への立候補を要請される。これはオランイェ側で、当時争っていたソト人勢力 (現レソト) に勝つために両国の統合を望む声が上がったためである。そして1860年、本当にプレトリウスは両国の大統領を兼任してしまう。これはトランスヴァール共和国憲法違反であり、結局同年中にトランスヴァール大統領は辞任した。しかし混乱は拡大し、1862年から2年間、トランスヴァールは内戦に陥った。
イギリスへの併合と第一次ボーア戦争
1877年、イギリスは不安定な国境の解決とボーア人がケープ・ナタール両植民地を脅かすのを防ぐためついにトランスヴァールを併合する。トランスヴァール側は政治対立と経済不況、財政問題から併合を受け入れる動きもあったが、独立派は1880年、プレトリウスとポール・クリューガー (Paul Kruger)、ピート・ジュベール (Piet Joubert) を旗頭に蜂起。第一次独立戦争 (第一次ボーア戦争) が始まった。いくつかの勝利を経て1881年、イギリス首相ウィリアム・グラッドストン (William Gladstone) は和平を選択。プレトリア協定 (Pretoria Convention) が結ばれボーア人は「トランスヴァール共和国」として独立を回復。1884年にはロンドン協定 (London Convention) で不利な条項の改正と南アフリカ共和国の国名の回復も成し遂げた。しかし、オランイェ以外との外交協定締結にはイギリス女王 (当時の国王はヴィクトリア女王) の許しが必要とされた。
金鉱の発見
1886年、首都プレトリアの南のウィットウォーターズランド盆地で金の大鉱脈が発見され、ゴールドラッシュが起こる。ヨハネスブルグの興りである。しかし鉱夫として大量のイギリス系が流入。トランスヴァールでは外国人は14年間居住しないと参政権は与えられないため、イギリス系住民はケープ植民地に抗議した。おまけにイギリス側当局の人間や、重税を課されていた鉱山シンジケートもボーア人政権を敵視した。1895年にはケープ植民地首相セシル・ローズ (Cecil Rhodes) とローズの率いるイギリス南アフリカ会社の南ローデシア行政官レアンダー・ジェイムソン (Leander Jameson) がトランスヴァール政府転覆を目論んで阻止される「ジェイムソン襲撃事件」を起こした。ボーア人は怒り、1897年にはトランスヴァール・オランイェ両国間で軍事協定が締結される。
第二次独立戦争 (第二次ボーア戦争)
1899年、オランイェ自由国のマルティヌス・ステイン (Martinus Steyn) 大統領の呼びかけで同国首都ブルームフォンテーンにてステインとトランスヴァールのクリューガー大統領、そしてケープ植民地総督アルフレッド・ミルナー (Alfred Milner) との間で「ブルームフォンテーン会議」が開かれたが対立は続き、トランスヴァールとイギリスは軍を動員。1899年10月9日、トランスヴァール・オランイェ両国はイギリスに対し要求撤回を求める最後通牒」を出す。イギリスが応じることはなく、11日、第二次独立戦争 (第二次ボーア戦争) が勃発した。
はじめはボーア側がケープ・ナタールへ侵攻したものの月末にはイギリスの援軍が到着。それでもボーア軍は奮戦し、12月10日~15日には相次いで勝利し、この期間を「暗黒週間」と名付けさせた。
これに対しイギリスはさらに援軍を送り、1900年には参戦兵力の合計は18万人にのぼった。さらに最高指揮官も交代し、2月に反撃を開始。相次いで勝利し圧倒的な数の軍隊でボーア人の士気を下げた。。
3月にはオランイェの首都が無抵抗で占領。5月にイギリスはオランイェ自由国の併合を宣言。オレンジ川植民地とした。補給品の不足とチフスの流行でしばらく進軍は停滞していたが、5月、イギリス軍はトランスヴァール首都へ向けて進撃を開始。6月にプレトリアに入城し、トランスヴァールも併合宣言が出された。
しかしボーア人はコマンド部隊を編成してゲリラ戦を展開。部隊は人員を募集した地域を中心に活動したため土地勘に優れ、イギリス軍を苦しませた。これに対しイギリスは装甲列車の投入による機動力強化と各地にブロックハウスと呼ばれる砦を建設し、警備兵を置くことで対抗。さらにボーア人ゲリラへの拠点や物資の提供を絶つため焦土作戦を実行。占領地で家屋や農場を焼き払い、住民を強制収容した。さらに現地アフリカ人の情報提供も得られるようになった。
これらの対策が功を奏し、1902年には半数のボーア人部隊が降伏。残りは頑強に抵抗をつづけたがその間にも収容者の犠牲や物資の不足がつづいた。そしてイギリスは条件付き降伏案を打診し、5月31日、ついにボーア人もこれを受け入れフェリーニヒング条約が締結。トランスヴァール・オランイェ両国は正式にイギリスに併合され植民地化される代わりに、ボーア人による自治やイギリスが復興支援金300万ポンドを拠出することが約された。こうしてトランスヴァール共和国、最初の南アフリカ共和国は滅亡し、イギリス王領植民地トランスヴァールとなった。そしてこれが未来にどでかい禍根を残すことになる。