トランスヴァール (Transvaal) とは
- 南アフリカの地域。現在の南アフリカ北東部にあたる。ヨーロッパ人の拠点となったケープ植民地から見てヴァール川の向こう側 (トランス) にあるためこの名がついた。ヴァールは現地語で「くすんだ色」を意味し、増水期の濁流の色に由来する。
- 電脳戦機バーチャロンに登場するプラント。第2プラントTV-02トランスヴァール (2nd PLANT TV-02 Transvaal)。
この項目では1.について述べる。
歴史
グレートトレック
喜望峰 (ケープ・オブ・グッドホープ) 周辺にケープ植民地を築いたオランダだが、ナポレオン戦争中の1812年にイギリスに奪われてしまう。オランダ系住民 (ボーア人) は二級市民的扱いを受けたこととイギリスによる領土拡大への規制に不満を募らせていき、1833年の奴隷廃止で所有する大農園の経営に打撃受けたことでついに一部住民が移住を決意。ピート・レティーフ (Piet Retief) らをリーダーとしていくつもの幌牛車の集団を組んで、ちょうどズールー王国による戦争で荒れ、阻む者のいなくなったオレンジ川 (オランイェ川。オランダ王家の有する称号「オラニエ公」が由来※。) 北岸へ渡った。移民たちはフォールトレッカーズ(Voortrekkers。アフリカーンス語で「前進するものたち」) を名乗った。最終目的地はズールー王ディンガネとの交渉が成立したため当時ズールー王国南部であったナタールとした。ただ一部の者たちは無人と化していたオレンジ北岸地域にそのまま住み着いた。またヘンドリック・ポトヒーター (Hendrik Potgieter) 率いる一隊は東のナタールではなく北のトランスヴァールへ向かい、ンデベレ人を撃退して入植。ンデベレ王国は北のマタベレランド (ジンバブエ南東部) へのがれて再興した。
大多数のボーア人たちは予定通りドラケンスバーグ山脈 (レソト南東から北東へ向かいモザンビークやジンバブエとの国境に達する)を超えナタールへ到達。迎え入れてくれたはずのズールー王にだまし討ちにされたりレティーフを失ったりしつつもアンドリース・プレトリウス (Andries Pretorius) の指揮のもと返り討ちにし、トゥゲラ川(ズールー語で「突然の」)以南を割譲させてナタール共和国を建国。したがわずか4年後にイギリスに滅ぼされ、プレトリウスらはトランスヴァールへ向かった。こうしてフォールトレッカーズの入植地はオレンジ川・ヴァール川間とトランスヴァールに落ち着いた。
※オラニエはフランス語のオランジェのオランダ語読みで、そのオランジェもアラウシオから変化したもの。果物のオレンジはサンスクリット語由来であり無関係。
トランスヴァール共和国
建国
イギリスはナタール占領後も内陸部への影響力確保を試みたが結局1852年にサンド・リバー協定 (Sand River Convention) を結んでトランスヴァールにおいて、「ボーア人にちょっかいをかけないこと」、「黒人勢力と同盟しないこと」などを約束。ボーア人は「南アフリカ共和国」を建国した。なお現在の南アフリカ共和国とは別物のため、のちにイギリスが名づけた「トランスヴァール共和国」の名で呼ばれる。首都ははじめポトヒーターにちなんで名づけられたポチェフストルーム、次いでプレトリウスにちなんで名づけられたプレトリアとされた。
しかし建国後は、他のボーア人小国家の併合や、1857年にはボーア人統一国家を作るべく初代大統領マルティヌス・プレトリウス (Marthinus Pretorius。アンドリースの息子) がオランイェ自由国 (オレンジ自由国。一度オレンジ川主権領としてイギリスに併合されたオレンジ川・ヴァール川間が1854年にブルームフォンテーン協定で独立。)を襲撃する、海を求めてデラゴア湾 (マプト湾。現モザンビーク領) 進出を試みるなど拡大路線に走る。
1859年にはプレトリウスはすでにトランスヴァール共和国大統領であるにもかかわらずオランイェ自由国から自国大統領への立候補を要請される。これはオランイェ側で、当時争っていたソト人勢力 (現レソト) に勝つために両国の統合を望む声が上がったためである。そして1860年、本当にプレトリウスは両国の大統領を兼任してしまう。これはトランスヴァール共和国憲法違反であり、結局同年中にトランスヴァール大統領の方は辞任した。しかし混乱は拡大し、1862年から2年間、トランスヴァールは内戦に陥った。
イギリスへの併合と第一次ボーア戦争
1877年、イギリスは不安定な国境の解決とボーア人がケープ・ナタール両植民地を脅かすのを防ぐためついにトランスヴァールを併合する。トランスヴァール側は政治対立と経済不況、財政問題から併合を受け入れる動きもあったが、独立派は1880年、プレトリウスとポール・クリューガー (Paul Kruger)、ピート・ジュベール (Piet Joubert) を旗頭に蜂起。第一次独立戦争 (第一次ボーア戦争) が始まった。いくつかの勝利を経て1881年、イギリス首相ウィリアム・グラッドストン (William Gladstone) は和平を選択。プレトリア協定 (Pretoria Convention) が結ばれボーア人は「トランスヴァール共和国」として独立を回復。1884年にはロンドン協定 (London Convention) で不利な条項の改正と南アフリカ共和国の国名の回復も成し遂げた。しかし、オランイェ以外との外交協定締結にはイギリス女王 (当時の国王はヴィクトリア女王) の許しが必要とされた。
金鉱の発見
1886年、首都プレトリアの南のウィットウォーターズランド盆地で金の大鉱脈が発見され、ゴールドラッシュが起こる。ヨハネスブルグの興りである。しかし鉱夫として大量のイギリス系が流入。トランスヴァールでは外国人は14年間居住しないと参政権は与えられないため、イギリス系住民はケープ植民地に抗議した。おまけにイギリス側当局の人間や、重税を課されていた鉱山シンジケートもボーア人政権を敵視した。1895年にはケープ植民地首相セシル・ローズ (Cecil Rhodes) とローズの率いるイギリス南アフリカ会社の南ローデシア行政官レアンダー・ジェイムソン (Leander Jameson) がトランスヴァール政府転覆を目論んで阻止される「ジェイムソン襲撃事件」を起こした。ボーア人は怒り、1897年にはトランスヴァール・オランイェ両国間で軍事協定が締結される。
第二次独立戦争 (第二次ボーア戦争)
1899年、オランイェ自由国のマルティヌス・ステイン (Martinus Steyn) 大統領の呼びかけで同国首都ブルームフォンテーンにてステインとトランスヴァールのクリューガー大統領、そしてケープ植民地総督アルフレッド・ミルナー (Alfred Milner) との間で「ブルームフォンテーン会議」が開かれたが対立は続き、トランスヴァールとイギリスは軍を動員。1899年10月9日、トランスヴァール・オランイェ両国はイギリスに対し要求撤回を求める最後通牒」を出す。イギリスが応じることはなく、11日、第二次独立戦争 (第二次ボーア戦争) が勃発した。
はじめはボーア側がケープ・ナタールへ侵攻したものの月末にはイギリスの援軍が到着。それでもボーア軍は奮戦し、12月10日~15日には相次いで勝利し、この期間を「暗黒週間」と名付けさせた。
これに対しイギリスはさらに援軍を送り、1900年には参戦兵力の合計は18万人にのぼった。さらに最高指揮官も交代し、2月に反撃を開始。相次いで勝利し圧倒的な数の軍隊でボーア人の士気を下げた。。
3月にはオランイェの首都が無抵抗で占領。5月にイギリスはオランイェ自由国の併合を宣言。オレンジ川植民地とした。補給品の不足とチフスの流行でしばらく進軍は停滞していたが、5月、イギリス軍はトランスヴァール首都へ向けて進撃を開始。6月にプレトリアに入城し、トランスヴァールも併合宣言が出された。
しかしボーア人はコマンド部隊を編成してゲリラ戦を展開。部隊は人員を募集した地域を中心に活動したため土地勘に優れ、イギリス軍を苦しませた。これに対しイギリスは装甲列車の投入による機動力強化と各地にブロックハウスと呼ばれる砦を建設し、警備兵を置くことで対抗。さらにボーア人ゲリラへの拠点や物資の提供を絶つため焦土作戦を実行。占領地で家屋や農場を焼き払い、住民を強制収容した。さらに現地アフリカ人の情報提供も得られるようになった。
これらの対策が功を奏し、1902年には半数のボーア人部隊が降伏。残りは頑強に抵抗をつづけたがその間にも収容者の犠牲や物資の不足がつづいた。そしてイギリスは条件付き降伏案を打診し、5月31日、ついにボーア人もこれを受け入れフェリーニヒング条約が締結。トランスヴァール・オランイェ両国は正式にイギリスに併合され植民地化される代わりに、ボーア人による自治やイギリスが復興支援金300万ポンドを拠出することが約された。こうしてトランスヴァール共和国、最初の南アフリカ共和国は滅亡し、イギリス王領植民地トランスヴァールとなった。そしてこれが未来にどでかい禍根を残すことになる。
トランスヴァール植民地
1906年に約束されていた自治権付与が実現し、植民地議会と議会の任命する植民地政府首相、首相の率いる責任政府が実現し自治植民地となった。
トランスヴァール州
1910年、自治領南アフリカ連邦が発足。トランスヴァールはケープ、ナタール、オレンジとともにその一州となった。州都プレトリアは南アフリカ全体の行政首都となった。
1913年以降、南アフリカ政府は黒人たちの「居留地」を設定し、人種隔離を推し進めていく。トランスヴァールにもいくつかの居留地が置かれ、黒人たちはそこに押し込められた。ボーア人たちの子孫であるアフリカーナーの政党、「国民党」は1948年に政権を獲得すると隔離を本格化した (アパルトヘイト) 。
1961年、人種問題での対立から南アフリカはイギリス連邦を離脱、南アフリカ王位 (最後の王はエリザベス女王) を排し、4つの州は維持されたが連邦制は廃され、現在の南アフリカ共和国となった。
共和制移行に先立つ1959年のバントゥー自治促進法 (Promotion of Bantu Self-government Act, 1959)により、居留地は10の自治領「バントゥースタン (バントゥー人、すなわち黒人の国)」もしくは「ホームランド (祖国)」となり、1971年にはバントゥーホームランド憲法法 (Bantu Homelands Constitution Act, 1971) により希望する自治領に対し独立が認められることとなる。もっとも自治は限定的、独立も名ばかりのもので承認する国など他のホームランドを除けば南アフリカくらいであったが。こうしてトランスヴァール領から、ヴェンダ人のヴェンダとツワナ人のボプタツワナの一部の、2つの「独立国」と、ペディ (北ソト) 人のレボワ、ツォンガ人のガザンクールー、ンデベレ人のクワンデベレ、スワジ人のカングワネの4つの「自治領」が分離された。当然黒人たちの不満はさらに募る。1976年、学校におけるアフリカーンス語 (アフリカーナーの使うオランダ系言語) の教育強制に反発した黒人がヨハネスブルグ郊外のソウェトにてデモ行進。鎮圧にあたった警官隊との衝突から暴動に発展した (ソウェト蜂起)。
1980年台にはアパルトヘイト反対運動はますます激化。1989年には政府はついに折れ、ネルソン・マンデラの釈放や彼の率いるアフリカ民族会議 (ANC) などの黒人や共産主義政党の合法化、アパルトヘイト撤廃後の南アフリカについて全政党参加で話し合う民主南アフリカ会議 (CODESA) の開催などアパルトヘイト撤廃に動く。しかし交渉中、ANCとズールー民族主義政党のインカタ自由党が対立し、トランスヴァールとナタールをはじめとする各地で武力衝突。交渉は難航したが1994年の選挙実施数日前に何とか合意に達した。
1994年、南アフリカで初の全人種選挙が行われてマンデラ政権が発足し白人支配が終了。各ホームランドは南アフリカに再併合された。そして新政権の下で州は再編されトランスヴァール州は解体・消滅した。
現在のトランスヴァール
トランスヴァールは4つの州に分割された。
ハウテン州
行政首都プレトリアや大都市ヨハネスブルクを擁する。面積は国土の1.5%だが人口の1/4が住む大都市圏である。ヨハネスブルクの金融業のほか、鉱業も行われており、領内にあるムポネン金鉱は生産量・規模、さらには深さも地下4000mと世界最大級である。当初はプレトリア・ウィットウォーターズランド・フェリーニヒング(PWV)と呼ばれていたが、1995年の州改名時、現地語で金を意味するハウテンに改名された。
- おもな都市
- ツワネ - 南アフリカ政府のおかれている自治体。ボーア人名にちなむプレトリアは今は一地区名となった。
- ヨハネスブルク
- フェリーニヒング
ムプマランガ州
東部の州。ハウテンが金ぴかの州ならこちらは黒光り。石炭産出量は南アフリカ全体の8割を占め、南アフリカの電力の9割を賄う石炭火力発電と世界第5位の輸出量を支えている。もとは東トランスヴァール州であったが現地語で「太陽が昇る場所」を意味するムプマランガに改名。
リンポポ州
北部の州。柑橘類などの果物や茶、コーヒー、タバコの栽培が盛ん。鉱物資源も豊富で、白金などの貴金属が豊富にとれる。北トランスヴァール州から北部州に改名され、その後さらにリンポポ州に改名された。名前はボツワナ・ジンバブエとの国境を成すリンポポ川に由来し、さらにさかのぼるとツォンガ人入植者のリーダー、ホシ・リボンボに由来する。
北西州
トランスヴァール西部とケープ北東部を合わせて創られた州。こちらも主力産業は鉱業で金、白金、ウラン、ダイヤモンドを産出。かつての共和国首都ポチェフストルーム、ボプタツワナ時代に開発された一大リゾート地「サン・シティ」もここにある。
表記ゆれ
1の関連タグ
出身者
イーロン・マスク - プレトリア出身
シャーリーズ・セロン - 現ハウテン州出身
キャスター・セメンヤ - 現リンポポ州出身
キャラクター
関連人物
マハトマ・ガンディー - インド人弁護士、思想家、政治運動家。ボーア戦争に従軍し、トランスヴァール植民地でインド人差別撤廃運動に身を投じた。