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ルイ・ルノー(1877年2月15日~1944年10月24日)

フランス自動車会社「ルノー」の創業者の一人。


略歴編集

1877年2月15日、パリ(フランス)のブルジョワ家庭に4番目の男子として誕生。子供の頃からエンジニアリングに興味を持っていた。

1894年、パリの名門高校「リセ・コンドルセ」へ進学。


1898年のクリスマスイブ、自分が発明したダイレクト・ドライブ・システム(プロペラシャフトを介したフロントエンジン・リアドライブのシステム)を採用した小型乗用車ヴォワチュレットパリ・モンマルトルのレピック通りの坂を登るデモンストレーションを行い、その場で13台分の注文を受けた。

1899年、マルセル、フェルナン、ルイのルノー兄弟により「ルノー兄弟社(ルノー・フレール)」が設立され、注文を受けた自動車を製造することになった。ヴォワチュレットは商業的に成功を収めた。また、ダイレクト・ドライブ・システムの莫大な特許料もルノーの経営を安定させた。

1903年、「パリ-マドリード自動車レース」でマルセルが事故死し、1908年にフェルナンが健康上の理由で会社を去り、その後はルイが全てを取り仕切った。


1908年、辻馬車の代替として開発した8CVがパリ市のタクシーに採用され、大量に受注。これを機にルノーは分業による大量生産に移行する。

1914年、第一次世界大戦が勃発。ルノー社とシトロエン社は旋盤ではなく油圧プレスを使用した75mm砲弾の製造に成功。マルヌ会戦の時には、パリのタクシー630台が前線へ増援の兵士を輸送するために徴発され、フランス軍がドイツ軍の攻撃に耐え抜くことができたという「マルヌのタクシー」の逸話がある。

1917年、ルノー社は革新的な軽戦車FT-17を開発。


1918年、第一次世界大戦が終結。クリスチャン・ブレール(画家ジャック・ブレールの妹)と結婚。戦争への貢献を認められレジオンドヌール勲章を受章する。

1920年、息子ジャン・ルイが誕生。

1922年、ルノー社を株式会社化して「ルノー工場株式会社(ソシエテ・アノニム・デ・ユジーヌ・ルノー)」とする。しかし第一次大戦後の需要減や技術的停滞、販売戦略の失敗などにより、プジョーやシトロエンに後れを取りフランス国内3位へと後退した。ルイ・ルノーは右翼的信念から労働運動を弾圧し、ライバルのアンドレ・シトロエンユダヤ人呼ばわりして侮蔑した。


1939年、第二次世界大戦が勃発。フランスは1940年にナチス・ドイツに降伏し、ルノー社はナチスに接収され、主力工場はイギリス軍アメリカ軍により空爆を受け破壊された。

1944年、連合軍にフランスが解放されると、ルイ・ルノーは対独利敵協力の罪で逮捕され、拷問を受けた末、10月24日に獄死した。ルノー社は政府に接収される。

1945年、ルノー社はシャルル・ド・ゴール将軍の命令により国有化され「ルノー公団」となる。


息子ジャン・ルイがルイ・ルノーの名誉回復を求める訴訟を長年続けたが、認められないまま1982年に死去した。現在も遺族により訴訟が継続中。


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