ゼンマイ仕掛けの人形が置いてある。
『……正帝(せいてい)……ガンバレ……!』
僅かにその人形から魔力が発せられ、カタカタと口が動いた。
『正帝ガンバレ……! 正帝ガンバレ……!』
『……完全……ナル……正義ヲ……実行セヨ……我々ハ……常ニ正シキ道ヲ歩ム……正義ノ絡繰ハ、彼ノ手二……正帝ガンバ――!』
そこでゼンマイが切れたか、人形が止まった。
「正帝は銀水世界リステリアに伝わるお伽噺の英雄です」
後からやってきたオットルルーがそう言った。
「正帝の絡繰神(からくりがみ)は強きを挫き、弱きを救う正義の味方です。リステリアでは誰もが子供の頃に読み聞かされました。そのため、世界が滅びる寸前に追憶した住人は多かったのです」
◇
固形化された水銀の体。
まるで絡繰り人形のような人工の神。
そいつの神眼(め)が確かに光り、意思をもって俺の深淵を覗き始める。
そして、カタカタと音を響かせ、口を開いた。
「――それが今の姿か」
ゼンマイ仕掛けの音を響かせ、無機質な声が水底に木霊する。
「墜ちたものだな、魔王」
「我は隠者エルミデ。かつて、その忌まわしき手により滅ぼされた銀水世界リステリアが元首である」
「かつての力を取り戻したいか、魔王」
エルミデは嘲笑うようにそう口にした。
「貴様は弱くなった」
「深淵なる力を捨て去り、その記憶もまた忘却の彼方に
ーー
一一我が銀水世界を滅ぼしたときの脅威は見る影もな
い」
「最早、我と対等に渡り合うことはできまい」
「貴様の深淵へ迫ろうかというその力だけは、このエルミデと通じるものがあった」
哀れみの声が、耳朶を叩く。
「それさえ捨て去り、またのこのこと我の前に姿を現そうとは。相も変わらず、理解に遠い男よ」
「……探してみるがいい、我を……」
最早、消滅寸前の絡繰神がこちらに視線を向けていた。
「……前世の貴様も、ついに見つけ出すことはできなかった……」
◇
「問わねばわからぬ貴様らの末路は知れている」
「追い詰めたと思っておるのか? この隠者エルミデを」
嘲るように、そいつは言った。
「釣り出されたとも知らずに」
そのとき、雲海迷宮が激しく揺れた。
絵画世界のどこかで膨大な魔力が弾けたのだ。
直後、爆音が耳を劈いた。
雲海迷宮の中にいて、なおもけたたましいその音が、被害の大きさを物語っている。
「我を止めたところで、事態は変わらんよ。ここからでは、《銀界魔弾(ゾネイド)》を止める手段はない」
「無駄な抵抗にすぎんよ。貴様らでは」
◇
「二律僭主。お前のすることは常になんの意味もない」
「それだけの力を有しながら、お前のやっていることは児戯に等しい。あの大陸など最たるものだ。神無き世界? 秩序が救わなかった者を救う? ククククク」
絡繰神は不気味に笑った。
「秩序が支配するこの海で、そんなことが本気でできるとでも思っているのか?」
「秩序が救わなかった者は、結局のところ救われないのだ。お前がしていることは、一時の儚い夢を見せているにすぎん」
ククククク、と絡繰神は再び笑った。
「救われない救済、無意味な願い。理想だけはご立派な夢追い人。だが、その実、お前はその夢すら自ら描いたわけでもない」
「臣下に祭り上げられたのだ。その夢は素晴らしいと。あなたにしか追えないと。馬鹿には理解できない尊い理想だとなぁ! 二律僭主、お前は裸の王様だ!!」
「いいや。私こそが、本物の隠者エルミデだ」
クククク、と崩れ落ちる絡繰神の体から、不気味な笑い声がこぼれ落ちる。
「そんなこともわからずに、理想を宣うか、二律僭主よ」
嘲るような言葉を残し、絡繰神は消滅した。
◇
「二律僭主なき今、もはや正体を隠す必要もなくなった」
声が響いた。
「我は正帝」
「完全なる正義を実行する者なり」
「秩序が救えなかったのではない。秩序は救わなかったのだ。汝らは、秩序に従い、生きるべきだったのだ」
「これでわかっただろう。秩序が救わなかった者を、救おうとしても意味なきことを。結局は秩序に従い、同じ末路を辿る。よいか? この海は、ただこの海の流れのままに。自由なる風など決して吹かない」
◇
「この海の正義は十分と言えるかな?」
「今、この海において、正義とは悪なのだ。最も大きな問題は、我々は正義の名のもとに、この海に嵐をもたらす」
「かつて、私は人々の正義に期待した。だが、それは裏切られた。だめだったのだよ。この銀水聖海の正義は不十分であり、つまり不完全だ。ゆえに──
──今度こそ、私は完全なる正義を実行する。それこそが絡繰世界デボロスタの元首、正帝ヴラドの使命だ!」
※この記事では、聖王レブラハルド・ハインリエルに成り代わっている正帝を中心に記述する。
概要
絡繰世界デボロスタの元首。正帝の称号を持つ。
また、銀水聖海の強者たちに成り変わり、隠者エルミデを騙って、絶渦の絡繰神を使い学院同盟パブロヘタラで暗躍している。
初登場
第十二章《災淵世界》編、§8.【パブロヘタラの法】にて初登場した。
描写
第十三章《聖剣世界》編
太古の昔に、何者かが絡繰神を使い、まずは尋常ではないほどの隠蔽魔法にて災人イザークの魔眼(め)を真っ向から掻い潜って《渇望の災淵》の底に行き、そして、そこに渦巻いている数多の渇望を《渦》にて掻き混ぜることによって、災淵世界イーヴェゼイノを動かそうとしていた。
時は流れ、現代にてイザークが目を覚ましたタイミングで災淵世界に聖剣世界ハイフォリアを捕食させようとしたが、アノスによって阻止されてしまい、絡繰神は滅ぼされ、《渇望の災淵》は災淵世界から切り離された。
第十四章《魔弾世界》編
大提督ジジ・ジェーンズに成り代わった正帝は、《絶渦》に対抗するため、神魔射手オードゥスと共に銀滅魔法 《銀界魔弾(ゾネイド)》を開発した。
また、銀滅魔法の機密を知った先王オルドフ・ハインリエルを《魔深根源穿孔凶弾(ベリアリウス)》にて撃ち抜き、緩やかに滅びるようにして《聖遺言(バセラム)》を封じ、とある泡沫世界に幽閉した。
現代では、オルドフの《聖遺言(バセラム)》によってパブロヘタラに真実を知られてしまったため、急遽《銀界魔弾(ゾネイド)》の試射を行い、絵画世界アプトミステを砲撃し、それと並行してジジが操る絡繰神が絵画世界の国宝、神画モルナドを奪取しようと彼の世界に侵入した。
また、それを阻止しようと火山要塞デネヴを強襲したアノスの故郷──転生世界ミリティアを砲撃した。
そして、アノスとの戦闘の最中に魔弾世界を《銀界魔弾(ゾネイド)》にて発射し、それごと深淵世界を撃ち抜くことによって、彼の世界の火露を略奪し、魔弾世界を深淵世界に進化させようとした。
しかし、その目論見はアノスによって打破され、絵画世界の絡繰神はレイに、正帝ジジはアノスに滅ぼされた。
第十五章《無神大陸》編
第三魔王ヒース・トニアに成り代わったと思われる正帝は、融合世界ボルムテッドの元首でもあったロンクルス・ゼイバットに、かつて親友だったからで済ますことができないほど異常な執着心を見せていた。
また、一万四千年前まで、正帝ヒースが操っていたと思われる絡繰神が何度も二律僭主ノアを襲撃していた。
現代では、仮面をつけるようになったノアに疑問を覚え、本物かどうかを確かめるために幽玄樹海を荒らし、その木々を枯らした。そして、それによってノアが偽物だと確信した彼は、無神大陸を奪う準備を進めるために深層十二界へ戻った。それと並行して、流水魔法を覚えたいと言うアノスに聖川世界リブラヒルムにて習得方法を教え、その場を去った。
その後、《銀界魔弾(ゾネイド)》にて武装した多数の配下を引き連れ、正体を明かして無神大陸を襲撃した。そこで住人たちやサーシャ、ミーシャを蹴散らし、そしてロンクルスと融合しようとした。
しかしそれは、二律僭主の記憶と肉体を取り戻したアノスによって阻止されてしまい、そこでアノスとかつてないほどの激闘を繰り広げるが、かつての力の一部を取り戻したアノスには軽傷を負わせることしかできず、滅ぼされてしまった。
第十六章《深層十二界》編
聖王レブラハルド・ハインリエルに成り代わった正帝は、パブロヘタラとそれに所属する世界の火露を一時的に聖剣世界ハイフォリアに集め、深層十二界よりも深くすることによって、聖剣世界が彼の小世界群に存在する《淵》が《絶渦》に奪われぬように防波堤の役割を果たすと、それらしいことを言って、ハイフォリアに存在する虹水湖を、《淵》──《虹路の泉淵》に進化させることで、銀海の深淵化を進めた。
またその際、レイたちに自身の名と大義を明かし、そして、《虹路の泉淵》から六十体の絡繰神を出現させた。
このように、人によって行動にバラつきがあるように思われるため、具体的な目的が不透明である。
容姿
正帝ヴラド本人の容姿は不明である。
しかし、成り代わった正帝はその人物と全く同じ容姿をしている。
人物
ヴラドは、現在の銀水聖海の正義は不十分であるとし、そして、その不十分で不完全な正義こそが、銀海に嵐をもたらす悪であると主張している。
そのため、銀海に真なる正義をもたらすことを大義としており、自身のことを正義を実行する者と称し、また、今度こそ完全なる正義を実行すると宣言している。
しかし、ヴラドがこのような思想を持つようになった理由は現在明かされておらず、全くの不明である。
能力
正帝ヴラド本人の能力は不明である。
しかし、成り代わった正帝はその人物と同等の力を持っている。
関連用語
絶渦の絡繰神
隠者エルミデが秩序ではなく、魔法によって創ったといわれる、人工の神族。固形化された水銀の体を持っており、絡繰り人形のような姿をしている。
それから、《絡繰淵盤》にて具象化された石板には、〝――其は、人が創り出した絡繰。其は、進軍する強き兵。其は、深淵へ至る帆船。名を、絶渦の絡繰神という――〟と記されており、絡繰神は《絶渦》を突破し、深淵世界を攻撃し、そこから火露を奪うために創られたと予想されている。
そして、それは子爵フレアドールが《絡繰の淵槽》に《絡繰淵槽水銀創造(ラジナ・ノウズ・リエスト)》を行使することによって創ったものである。
また、フレアドールはそれを用いて創った首無しの絡繰神を、奪った首と融合させることで、その首の持ち主の力や記憶、外見を写し取り、成り代わらせていた。
しかし、完全に写し取ることはできず、特に想いが強い大切な記憶などは欠落すると思われ、また、正帝レブラハルドは絵画世界アプトミステに出現した絡繰神との戦いまで霊神人剣エヴァンスマナを抜くことができなかった。
しかし、そうして出来た偽物は、姿も魔力も根源すら本人と見分けが付かず、それは成り代わった人物の世界の主神をも欺くほどであり、更には大魔王ジニア・シーヴァヘルドの魔眼さえ騙している可能性がある。
考察
各々の正帝の行動は現時点ではバラバラに見えるが、読者の間では、全ての正帝の行動に〝融合〟が関わっているという共通点があると指摘されている。