概要
袁枚が書いた清代の志怪小説『子不語』巻九「兔兒神」に登場する神。
福建に年若くして科挙に合格し役人となった男がいた。彼は役人や民の様子を見て回る「巡按」の任についていた。
そして美貌の持ち主でもあり、胡天保(Hú Tiānbǎo)という男はその美しさに心奪われた。彼の行くところについて来ては見つめてくるのだが巡按はその意図をはかりかねていた。
訝しむ彼であったが、部下の役人達はあえて何も言わなかった。巡按が他の町を巡回した時、胡もついていった。
ある日、巡按が厠(トイレ)に入ると、そこで胡天保が隠れ、巡按の尻を覗いていた。
巡按が問いただすも沈黙したが、更に追求を受け、その想いの丈を告白した。巡按は激怒し、枯木の下で彼の命を奪った。
一ヶ月を過ぎた頃、里の住人の夢に胡天保が現われた。彼は貴人に対し邪な動機で覗きを行った以上死は当然であるが、これは一片の愛心、一時の愚かな想いによるもので、通常の人を害する者とは違うと語った。
冥官(冥府の官吏)から笑われ、揶揄されたが、怒る者はいなかったという。その後、陰官(陰府の官吏)が胡天保を「兎児神」という封号を持つ神に任じたと言う。
そして、兎児神は男性と男性の関係を司る神であると説明し、廟を建立し、香を焚くようにと里人に伝えた。
閩(福建を中心にかつてあった国、その地域)には俗に男子が契弟(義弟)を娶る習慣がある。里人が資金を募って廟を立てて祀ったところ響くほどの霊験が現われた。秘密の出会い、求めるものを得られない者たちもここで祈願した。
図像表現
朱色の肌色でウサギの耳を持ち、動物の毛皮を羽織った人物像が存在している。
清の役人である朱珪(Zhu Gui、1731-1807)の報告では、「胡田寶(Hú Tiánbǎo、胡天保と音が似通っている)」信仰において、抱き合う二人の男性を象った石膏像が儀礼に用いられた事が記されている(『重纂福建通志卷』卷五十五.朱珪禁淫祀文)。その一方は稍蒼(やや色白)でもう一方は嫩白(白く瑞々しい)の容貌だった。
信仰
ハーバード大学中国史教授マイケル・A・ソーニ(Michael A. Szonyi)によると、胡天保と兎児神という語の結びつけは『子不語』著者袁枚オリジナルだという(How the Rabbit Became an Emblem for Both Gay Men and Chinese Nationalists)。
六朝時代の詩『木蘭辞』では男装して男性と気付かれずに戦士として活躍した花木蘭について語られ、そこでウサギが性別が判然としない生き物として言及されている。
清朝末期では、兎という語が稚児、女役を舞台で演じる男優を指す語として使われ、男娼を中傷する語にもなっていた。
南方熊楠はこの「外色守護の神」がうさみみを生やしている件について、雄兎はちんこの近くに女性器のような窪みがあることから「男ふたなり」である(とされる)この獣がデザインに採用された可能性を示唆している。
朱珪の報告では抱き合う二人の男性の石膏像が「小官廟」に祀られ、信徒は像の口に豚の大腸と砂糖を入れる事で感謝を表わしたという。清朝はこの信仰を弾圧する立場をとり、その役人である朱珪も極めて激しく非難する言葉を述べている。さらに、胡田寶の泥像と木牌を探し出して断ち割り川の下に棄てている。
が、その全てが破壊された訳ではないようである。「王立アジア協会香港支部のジャーナル(Journal of the Hong Kong Branch of the Royal Asiatic Society)」42号434ページに掲載されたキース・スティーブンス(Keith Stevens)の報告(2002年)によると、台湾、マレーシア、タイ王国、シンガポールの福建語話者コミュニティで「抱き合う二人の男性」表象が見られ、太保(Taibao)と呼ばれていた。
この二人の事は兄弟だと言われたが、福建省のとある寺院でのみ恋人同士だと伝えられた。
台湾の首都台北に兎児神を祭神とする道教寺院「威明堂」がある。2006年に道教僧・盧威明(Lu Wei-ming)によって建立され、ここでは「兔兒神胡天保」の神名で祀られている。
威明堂は、2020年時点において、公式に兎児神を祀る唯一の道教寺院である。性的マイノリティを歓迎する姿勢をとっており毎年9000人の参詣者を集めている。
盧威明は家族や宗教から見捨てられた人々のための場所とするためにこの寺院を建てたと語っている(How a rabbit god became an icon for Taiwan’s gay community)。
LGBTQの権利においてアジアの中でも先進的な台湾だが、同国の道教教団には保守的な価値観がまだ根強く、兎児神信仰は他なる価値観の人々から強烈な敵意を向けられてもいる。
盧威明はロイター通信の取材に対し、兎児神の祭壇の前で悪魔払いを試みた牧師や寺院前で抗議したキリスト教活動家について語っている(Taiwan's gays pray for soul mates at 'Rabbit' temple)。
兎児神と月下老人
道教には伝統的な縁結びの神月下老人が居る。彼の司る縁結びは、基本的に男女の間のものとして理解されていた。
台北時報の2007年の記事で、盧威明はゲイの参拝者に対し、月下老人には参らないようにアドバイスしていると語った。
「なぜなら、男女間の恋愛は、彼の職分だと信じられているからです。彼は同性愛者の祈りに戸惑い、きっと自分自身にこう言い聞かせるでしょう。『その祈りは正しくないようだ。その代わりに女性と(の縁を)取り持とう』」(Taoist homosexuals turn to the Rabbit God The Rabbit Temple in Yonghe enshrines a deity based on an historic figure that is believed to take care of homosexuals)
ただし、2010年代に入り、台北の廟「霞海城隍廟」がここで祈願した同性カップルの事例をあげ「神の面前では愛は差別されない」と声明を出す(霞海城隍也挺同婚! 當事人如今登記成婚 允諾還願)等、月下老人を祀る寺院の関係者が彼が性的少数者の祈りを受け入れるとコメントした事例は存在する。
神徳
同性間の恋愛を取り持つ神にして、LGBTの守護神とされる。また先の台北時報の記事において盧威明は、兎児神は道教における土地神・城隍神に仕えており、社会的・霊的双方のネットワークに連なる事で定命の者達の様々な望みに応える事ができると語っている。
登場作品
『兔儿神弄姻缘』:兎児神が主人公をつとめる2002年の台湾ドラマ。メイン画像は本作の兎児神を描いたイラスト。
ニール・ゲイマン『アメリカン・ゴッズ』:ドラマ版第3シーズンのエピソード「炎の歓喜(The Rapture of Burning)」に登場。
関連動画
関連タグ
月下老人:道教における縁結びの神。
兎児爺:中国の伝統的な白兎の泥人形。北京の都をおそった流行病から人々を助けるため少女の姿をとり地上に降りた玉兎(月のウサギ)の説話で知られる。
外部リンク
『子不語』巻九「兔兒神」(中国語版ウィキソース)
兎児神に関する記述・記録まとめ(威明堂フェイスブックページ)