概要
1579(天正7)年~1647(正保4)年。
近江国小堀村(滋賀県長浜市南郷里地域。北陸自動車道長浜IC付近)生まれ。
もと備中松山藩(岡山県高梁市)の藩主だったが役職替えと転封により最終的には一族の本貫であった近江小室藩(滋賀県長浜市)の藩主となった。江戸初期を代表する高名な茶人のひとりであり、また築庭の名手として知られる。
幼名は小堀作助、元服後は小堀正一あるいは小堀政一と改めている。
幼少の頃から父小堀正次(浅井家→豊臣秀長家老→豊臣秀吉直参→徳川家康膝下)の英才教育を受けており、秀長・秀吉の時代に千利休、古田織部と続いた茶道の本流を受け継いで、徳川将軍家の茶道指南役となっている。
1600年、父の正次が関ヶ原の戦いの武功により、備中松山藩を与えられた事で、これに従う。ここでは備中松山城の整備や松山藩尾根小屋(藩主が常駐する藩の政務出張所)の設立、頼久寺庭園の築庭などを行った。また現地で獲れる柚子に目をつけゆべしを考案した。これは幕末にまで現地に伝わり山田方谷によって殖産の一手として活用され、現在でも備中を代表する銘菓(郷土菓子)として知られている。1604年に父が死去し、その家督と所領を継いだ。
1608(慶長13)年には駿府城作事奉行を務め、その功により諸太夫従五位下遠江守に叙せられ、これにより小堀遠州と呼ばれようになった。
1617年に河内国の奉行となり大坂(大阪)天満の役邸へ移る(備中松山藩主の後任は池田長幸)。1619年に近江小室藩に移封される事となった。1624年には伏見奉行に任じられる。
生涯に400回あまりの茶会を開いて、王朝文化の理念と茶道を結びつけた「綺麗さび」という幽玄・有心の茶道を創り上げ、日本の美の系譜を再構築して新たな平和な時代へ向けて基礎を築いた。
なお、小堀遠州を藩祖とする近江小室藩は田沼時代に田沼意次と親しくしていた事が仇となり、田沼失脚時に松平定信によって改役され、一族は断絶となった。
改役された小室藩は、以降、天領(しかも地域ごとに管轄する代官所が異なったもの)および旗本領ならびに各藩領(飛地領)としてバラバラにされ、それは廃藩置県まで続いた。
関連イラスト
関連タグ
長浜市:近江小室藩。出自、領地
高梁市:備中松山藩。旧領地。
ゆべし(備中ゆべし):考案者。遠州がこれを考案していた事で備中松山は幕末直前の難局(財政難)から救われた。
山田方谷:遠州が考案したゆべしを世間に広めた希代の改革者。