概要
生い立ち
1898年(明治31年)10月5日、大阪の不動産業を営む裕福な家庭に生まれる。若いころは画家を志し、京都市立美術工芸学校で日本画を、東京の黒田清輝の葵橋研究所で洋画を学んだ。
映画とアニメーションの世界へ
1925年(大正14年)牧野省三のマキノ・プロダクションに入社し映画の世界に入る。マキノ・プロでは助監督、美術スタッフ、カメラマン、さらには「瀬川瑠璃之助」の芸名で俳優までこなすという多才ぶりを見せた。
1929年(昭和4年)に、日活教育映画部の技術主任に就任する。このころに政岡はアニメーション製作に興味を持つようになり、翌1930年(昭和5年)に『難船ス物語・猿ヶ島』で漫画映画監督としてデビューを果たした。
政岡映画製作所の設立
独立した政岡は、1932年(昭和7年)7月に京都に政岡映画製作所を設立し、本格的に漫画映画製作に取り組むようになる。
同年4月に、政岡は松竹の依頼を受けて『力と女の世の中』の製作を開始しており、翌1933年(昭和8年)4月13日に本作は公開された。本作は日本で最初に製作された国産音声付トーキー漫画映画として知られているが、残念ながらフィルムは現存していない。なお、製作開始は『力と女の世の中』より遅かったものの、国産音声付トーキー漫画映画として先に公開されたのは大藤信郎の『蛙三勇士』(1933年2月28日公開)である。
この年の暮れに、政岡映画製作所は社名を政岡映画美術研究所に改称している。
そして、1934年(昭和9年)には『茶釜音頭』を製作・公開する。この作品は全画面にセル画が使用された日本で最初の漫画映画である。当時は高価な希少品だったセルロイドは、部分的には使用されていたものの製作資金が高額になるため敬遠されがちであった。しかし、政岡が先鞭をつけたことにより日本の漫画映画は切り紙アニメからセル画アニメへと移行していくこととなる。
1935年(昭和10年)には、円谷英二とともに映画『かぐや姫』の製作にかかわる。本作には日本初となる人形アニメが特撮に用いられた。しかし、同年に政岡映画美術研究所は経営不振と室戸台風の被害により倒産の憂き目にあう。
1937年(昭和12年)政岡は弟子のアニメーターたちとともに日本動画協会を発足させる。このころに政岡は、アニメーションを動画と翻訳した(これ以前は漫画映画や線画と呼ばれていた)。1939年(昭和14年)に政岡は松竹の支援の下に日本動画研究所を設立し、次々と作品を製作することとなった。
戦時中の活動と『くもとちゅうりっぷ』
真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発した1941年(昭和16年)の5月、政岡は松竹の漫画映画部の製作課長に就任する。当時は時勢により、内務省・文部省・陸軍省・海軍省などの指導の下に漫画映画製作も国策に組み込まれ、政岡をふくむ多くのアニメーターが戦時漫画映画を製作した。
そのような時代において、政岡は1943年(昭和18年)に日本アニメ史にその名を残す傑作『くもとちゅうりっぷ』を世に送った。戦時下に作られたとは思えない詩情あふれるストーリー、セル画の特性をフルに活かした映像美は戦前から続いた日本アニメのひとつの頂点だったと言って良い。また、本作は白黒アニメにもかかわらず、使用されたセル画にはカラー着色がなされていた(わずかながら本作品のセル画は現存している)。漫画家の松本零士は幼少期に本作を鑑賞して、大きな影響をうけたという。
1944年(昭和19年)政岡の弟子のひとりである瀬尾光世は、松竹で日本初の本格的長編漫画映画である『桃太郎・海の神兵』の製作を海軍省の指導の下で開始した。政岡は本作に影絵パートの作画担当として参加している。
『桃太郎・海の神兵』は翌年の1945年(昭和20年)4月12日に公開されたものの、都会の子供たちは地方に疎開してしまっており、ほとんど話題にならなかった。しかし、公開日初日に焼け野原となった大阪道頓堀の松竹座で若き日の手塚治虫は本作を見て感激し、アニメ製作の夢を抱くこととなった。
戦後の活動と日本動画社の設立
8月15日に戦争は終わった。そのわずか2ヵ月後の10月に、新日本動画社が設立された。ここは政岡をはじめ、山本早苗、村田安司、荒井和五郎らが中核となり、100名ものアニメーターが所属する大組織となった。11月には日本漫画映画株式会社と社名を変更し、日本のアニメ産業の復興は幸先良くスタートした。と、思われた。
1946年(昭和21年)5月に政岡は『桜・春の幻想』を完成させた。現在では、その芸術性が高く評価される本作だが、親会社の東宝は「興行的価値なし」として本作を一般公開しなかった。
さらに翌1947年(昭和22年)4月に、政岡は山本早苗とともに日本漫画映画社を脱退してしまった。理由は首脳部の意見の対立であったとされている。
日本漫画映画社を脱退した政岡と山本は、新たに日本動画社を設立した。そして製作されたのが『すて猫トラちゃん』である。本作は政岡の戦後の代表作となり『トラちゃんと花嫁』(1948年)『トラちゃんのカンカン虫』(1949年)の2本の続編が製作・公開された。
なお、『すて猫トラちゃん』の製作は日本漫画映画社の在籍中から進められていたようで、スタッフロールには日本漫画映画社の社名がクレジットされている。
アニメ製作の断念
しかし、1949年(昭和24年)に政岡は日本動画社を退社し、アニメ製作を断念してしまった。理由は過労による視力障害と経済的な困窮であった。政岡は次のように語っている。
「結論からいえば”食えなくなったから”だ。日動は開店休業で給料とて出ない始末。もともと大好きな道であるけれども、折り悪く、そのとき妻が大病をわずらった。とにかく金が必要だった。感傷的なことはいっていられなかった。それで十人ほど仲間を集め、”漫画家”として再出発する気になった……」
〈山口且訓・渡辺泰『日本アニメーション映画史』有文社 1977年 53頁より引用〉
日本動画社を退社した政岡は日本動画集団を設立したが、その主な仕事は児童雑誌の漫画や挿絵、絵本の製作だった。
政岡が退社した後、山本早苗は日本動画社をなんとか支え続けた。1952年(昭和27年)に日動映画と社名を変更し、翌年に同社は東映に買収された。そして、1956年(昭和31年)に日動を元に東映動画が発足した。
ピープロダクション時代から晩年
戦後しばらくのあいだ、アニメーション製作から遠ざかっていた政岡だが、1960年代半ばに、アニメーター養成顧問としてピープロダクションに招かれた。
ピープロでは後進の育成だけでなく、手塚治虫原作の特撮テレビ番組『マグマ大使』のアニメパートの作画や、TBSが海外販売を狙ったカラーアニメのパイロット版の作画などにも携わった。
うしおそうじの『手塚治虫とボク』(草思社2007年)によれば、このパイロット版のワンシーンは「主人公が格闘するのを、カメラが地上からクレーンで空中の俯瞰位置まで回りこむようにみせる」とういうもので、アメリカのバイヤーたちを驚愕させたという(これと同様の作画は『すて猫トラちゃん』でも用いられている)。
晩年、政岡は自身の手でアンデルセンの『人魚姫』をアニメ化する企画を温めていたが、それを実現することはできなかった。
1988年11月23日、政岡憲三は永眠した。享年90歳。