うしおそうじ
うしおそうじ
1939年、心臓脚気を患い工学院を中退。東宝に入社し線画室(アニメーション部門)に勤務。課長待遇で迎えられた円谷英二に東宝社員が非協力的なのを気の毒に思い、自分の仕事が終わった後に技術助手を務め、特撮技術を習得する。
1943年、陸軍中部九八部隊(滋賀県八日市)に入隊。先輩の写真工手だった三船敏郎とは生涯にわたる親友となった。
1945年、「熊谷飛行学校」で敗戦を迎える。東宝に復帰するが労働争議で仕事にならず、漫画を描いて生活費を稼ぐ。ペンネームは牛尾走児。
1948年、東宝を正式に退社し専業漫画家となる。
1952年、手塚治虫が「漫画少年」への執筆を直談判に来る。以後、生涯にわたり親交を結ぶ。
1954年、那古美夫人と結婚。
1959年、依頼された教育映画制作のため「鷺巣プロダクション」を設立。
1960年、漫画家を引退し「株式会社ピー・プロダクション」を設立。
1963年、「円谷特技プロダクション」の発起人の1人となる。
1964年、テレビアニメ「0戦はやと」を製作。
1966年、特撮テレビドラマ『マグマ大使』、テレビアニメ『ハリスの旋風』を製作。
1968年、ピープロで労働争議が起こり、第一スタジオをアニメスタッフに明け渡すが子供の火遊びで全焼。自宅の敷地内に第二スタジオを建設し特撮スタッフを再雇用。金策に窮する日々が続く。
1971年、特撮テレビドラマ『宇宙猿人ゴリ』(→『宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン』→『スペクトルマン』とタイトル変更)を製作。第二次怪獣ブームの魁となる。
1972年、特撮テレビドラマ『快傑ライオン丸』を製作。
1973年、特撮テレビドラマ『風雲ライオン丸』を製作。
1974年、特撮テレビドラマ『電人ザボーガー』、グルメ番組『くいしん坊!万才』(初期のみ)を製作。
1975年、特撮テレビドラマ『冒険ロックバット』を製作。最後に携わったテレビシリーズとなる。
2004年3月28日、死去。享年82歳。