経歴
東京都立小松川高等学校卒業後、早稲田大学に進学。入学の年に始まった『機動戦士ガンダム』に影響を受け、早稲田アニメーション同好会に入る[1][2]。自主制作アニメや同人誌を制作していたが、あまりにものめり込みすぎて大学を留年してしまう[2]。普通の就職をする気が無くなり、アニメーターになることを思い立つ。
1981年、動画のアルバイトをきっかけに、大学を中退してベテランアニメーターの芝山努、小林治が経営するアニメ制作会社「亜細亜堂」へ入社。
動画を1年ほど経験した後、当時の社長だった芝山努に言われ、1983年の『ときめきトゥナイト』の第14話「見た!!ランゼはたぬき」で演出デビュー。
1983年から小林治監督の下で演出したスタジオぴえろ制作の『魔法の天使クリィーミーマミ』のリアルな日常描写と工夫されたカメラワークで注目を浴びる。この作品で、小林からレイアウトの取り方やタイミングの配慮など、多くのことを学ぶ。当時、亜細亜堂には演出専門のスタッフが置かれておらず、小林もちょうど必要性を感じていた時期であった[6]。小林によれば、望月を選んだ理由はある程度絵が描けて何をするにも思慮深かったのが半分で、残りの半分は直感だったとのこと。
1986年、タツノコプロ制作の『光の伝説』で初のチーフディレクター(監督に相当)を担当[7]。しかし、初対面のスタッフばかりの上、自身がタツノコ作品に馴染みがなかったことで上手くタツノコカラーを出せず、わずか19話で打ち切りとなった。
1987年、初の完全オリジナル作品『トワイライトQ 時の結び目 REFLECTION』を監督。
1988年、アニメーターの後藤真砂子と結婚。
1989年、芝山努監督の下で『らんま1/2』のシリーズディレクターを担当。多忙の芝山に代わって望月が事実上の監督を務めたが、キティ・フィルムの要望に合わせることが出来ず、2クールもたずにシリーズは一旦打ち切られ、望月降板後に仕切り直しとなった。
1991年から1993まで発売されたOVA『ここはグリーン・ウッド』シリーズで、原作者の那州雪絵自身の指名により、後藤真砂子とともに脚本・監督・作画監督を務めた[8]。最初は2巻までの予定だったが、好評を受けて6巻まで制作された。
1993年5月に放送されたスタジオジブリのテレビスペシャル『海がきこえる』を監督。ジブリとしては、初の宮崎駿・高畑勲以外の監督作品だった。
1995年の『ダーティペアFLASH 2』をきっかけに、サンライズから仕事のオファーが来るようになる。以後、勇者シリーズ『勇者指令ダグオン』[注 3]、『セラフィムコール』などのサンライズ作品の監督を務める。
2009年、長年所属していた亜細亜堂を退社し、フリーとして活動を開始。