概要
「美川秀信」とは、大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の登場人物である。
いろいろとあって「作品中屈指のネタキャラ」となっている。
しかし実は「実在した『金栗四三の同郷の幼馴染み』の友人『美川秀信』」を基にして作られた、ほほオリジナルキャラクターである。
詳細は後述する。
「いだてん~東京オリムピック噺~」の美川秀信
:いだてん
演:勝地涼
主人公金栗四三の同郷の幼馴染みの友人。
四三の事は主に「金栗氏」と呼ぶ
熊本・玉名中学校時代から登場。
ロイド眼鏡をかけた髪の毛クルクルの青年。
夏目漱石(というよりはその中の女性描写)に傾倒し東京高等師範学校・東京高師を受験する事を決め、それを四三に告げた事で、四三が東京高師に入学するきっかけとなる。
四三と共に東京高師に入学するも「文学」を忌避する東京高師の校風に合わず、永井道明に叱責されたり徳三宝にぶん殴られたりしているうちに「劣等生」の烙印を押されてしまう。
そして四三が「マラソンの道」を駆け出し始めた為に四三との心の距離が開き、いつの間にか東京高師からも姿を消していた。
以下ネタバレ。
ところが実は同郷だった遊女・小梅に惚れ込んでしまい、小梅を囲ってたヤクザ者から匿われる形で四三の下宿先の足袋屋「播磨屋」に転がり込む。
そこで店主の黒坂辛作から罵倒されつつも「竹久夢二もどきの絵描き」を目指しつつ(但し画力は「画伯」レベル)
「金栗四三の暴走機関車」ぶりを呆れながら、たまには煽りながらものんびり眺めていた。
やがて四三の下宿「播磨屋」に通うようになった妻・スヤが、美川に「四三への不満」をぶつけた時に、
四三の日記を読むように勧めた。
読んだとね?
………葛藤は、ありました
結果として「スヤが四三の思い」に気付くきっかけとなったのだが、
この辺りから「クズ男・美川のネタキャラ化」が顕著になってくる。
辛作から「ゴキブリ」呼ばわりされ、スヤからは「誰?」扱いされ、
挙げ句の果てに村田富江のブロマイドを怪しげに路上で売るまでに落ちぶれてしまう。
これが四三の「竹早女学校解任騒動」に発展してしまったため、更にクズ男扱いされる事になってしまう。
大正12年9月1日。「関東大震災」発生。
しかし美川の消息は判らず、「復興運動会」にもその姿は無く、「田畑政治編」に入ってもその行方知れず、どこへ行ったのやら全くわからなくなってしまった。
以下、更にネタバレ。
が。
第33話にて、
四三が弟子にした小松勝を連れて、熊本の山奥を激走していたら、
いきなり「カフェー・ニューミカワ」の看板が。
美川くん!?
やあ金栗氏、いらっしゃい
なんと美川は関東大震災に遭ったあと、大阪や広島や山形などなど、紆余曲折の果てに、故郷熊本でカフェを開いていたのだった。
そして小松勝に対して「自分の夢」をこう語った。
満州だよ、これからは
その後、四三が再び上京したため、またまた「美川はどこへ行った?」状態になったのだが、
以下、更にもっとネタバレ。
時は流れて「第二次世界大戦」終戦後。
満州から命からがらようやく引き揚げようとしていた古今亭志ん生こと美濃部孝蔵の前に、
ウォトカぁ~!!
満州土産にウォトカはどうだ~い??
どうやってだかはしらないが、本当に満州に渡っていた美川が、何故かそこにいた。
しかもこんな怪しい格好で。
一応、孝蔵には会ったことはあるのだが、当然名前を覚えられておらず、その事を嘆きながら雑踏の中に美川は消えていった。
その後の、彷徨える羊「ストレイシープ」美川の行方は、杳として知れない。
「美川」への反響
さて、その「美川のへのネットの反応」であるが、
初登場時からこんな髪の毛クルクルな頭で、なおかつなんか「濃い」雰囲気だったので、
その様はキャストの「あまちゃん」での役「前髪クネ男」になぞらえて、
「天パ眼鏡」やら「全体的にクネ男」やら「全髪クネ男」やら、めっちゃ言われ放題であった。
しかし、これは始まりに過ぎなかった。
でっかい猫を抱えていた頃はまだ平和であったのだが、
勝地涼はInstagramを利用しています:「#いだてん きんときくん😸VS勝地メルくん😾」
四三の下宿に転がり込んだり、四三の日記を無断で読んだり、出所が怪しい女の子の生足ブロマイドを路上で売ってたり、その他もろもろいろんな事をしてしまったため、
ネタキャラを越えてすっかりクズ男、いや「ゴキブリ」扱いになってしまう。
ちなみにスヤからは「金栗四三の友人」として全く認められていない。
やった事がやった事であったから仕方ないのではあるが(笑)
しかしその一方で「関東大震災」の際には「復興運動会」にも顔を見せなかったが「美川なら大丈夫、きっと生きている」と妙に安心されたり、
ことあるごとに「美川が出た」「美川が出なかった」とネットで騒がれ、Twitterで本編に登場しなかったのにもかかわらずトレンド入りする事もあった。
その「美川に対する騒ぎっぷり」は、こちらを読んでもらうとわかりやすいだろう。
「いだてん」の関連タグ
実際の「美川秀信」
先述した通り「美川秀信は実際に存在した金栗四三の友人」を基にして創られたキャラクターである。
そして「実際の美川秀信」は、金栗四三からこんな風に語られていた。
二人は玉名中学からの同級生で、共に東京高師に入学し、上京した。
夏休みに熊本に帰郷する際に、共に富士山に登った。
しかしロクに登山の準備をしていなかったため、途中で断念したという。
そして翌年、金栗四三は再び富士登山に挑戦し、成功した。
しかしそこには美川秀信の姿は無かった。
美川秀信は「俺は教員になどなりたくない」と口にするようになり、勉強をしなくなった。
そして進級することなく、いつの間にか東京高師から姿を消していた。
金栗四三はなんとなく気まずく、その後、故郷でも美川秀信の事を話す事はなかった。
後に伝記にて、
美川がいなくなって寂しかった。
彼に忠告し、奮起させて東京高師に留まらせておけばよかった。
と語っていたという。
この逸話と「金栗四三の日記」から、「美川秀信が『いだてん』の登場人物」となったわけなのだが、
「いだてん」の作品制作の為の取材過程で、「ファミリーヒストリー」スタッフから「遺族や親族の探し方のノウハウ」を聞いて実行した結果、
『いだてん』取材担当・渡辺直樹インタビュー 前人未到の大河ドラマ『いだてん』はいかにして作られたのか 取材担当者が明かす、完成までの過程|Real Sound|
熊本にいた、美川秀信の親族が見つかったのである。
そして美川秀信役の勝地涼が親族の方たちと面会したり
「いだてん」勝地涼が語る“ストレイシープ”な美川の気持ち「コミカルだからこそ切ない」<前編> | ザテレビジョン
「中村勘九郎さんとは絶対に一緒にやりたかった。幼なじみ役で出演できてうれしいです」勝地涼(美川秀信)【「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」インタビュー】 | エンタメOVO
勝地涼、『いだてん』で“全髪クネ男”好演!「金栗氏~」の一言で印象付け | マイナビニュース
熊本県南関市のローカル誌に「実際の美川秀信に関する特集記事」が掲載された。
しっとんね vol.27 | kumamoto ebooks |
で、実際の美川秀信がどのような生涯を送っていたかというと・・・
まず前述の通り東京高師から去った後、今度は水産講習所(現在の東京海洋大学の前身のひとつ)に入学。卒業後は同所の助手や、民間の研究所の技師を勤めており、この間中国の青島にも一時在住していた事が確認されている。
やがて元号が大正から昭和へ移る頃には朝鮮半島へ渡り、朝鮮総督府の水産試験場に勤務。当地では麗水の水産学校で教鞭を執っていた時期もあったようで、前述の「俺は教員になどなりたくない」との言を思うと、何やら感慨深いものがある・・・かも知れない。
最終的には仁川にあった水産試験場の場長に就任、漁業や井戸の掘削に関する教育を通して現地の人々からも慕われていたようで、49歳で逝去するまで現地に留まり続けたという。時に1940年(昭和15年)、幻の東京オリンピックが開催されるはずだった頃の事である。
・・・このように、大河ドラマでの「ストレイシープ」ぶりからは大きくかけ離れてはいるものの、実際の美川秀信の人生もまた堅実ながらも興味深いものであった事が、以上の経歴からも窺い知れるだろう。
朝鮮総督府及所属官署職員録. 大正15年 - 国立国会図書館デジタルコレクション:右上に名前記載有り
朝鮮総督府及所属官署職員録. 昭和13年8月1日現在 - 国立国会図書館デジタルコレクション:右上に名前記載有り
朝鮮総督府及所属官署職員録. 昭和14年 - 国立国会図書館デジタルコレクション:中央下に名前記載有り