概要
作中では霖之助の初登場作品である『東方香霖堂』から登場する。
『香霖堂』第七話において先述の「 未知のアイテムの名称と用途が判る程度の能力 」の名称が霖之助の思考文中に登場しており、その概要が語られている。この他の場面でも霖之助は自身の能力について「 僕の能力は『道具の用途を見極めることができる』事だ 」などともしている。
ただしの能力には欠点もあり、この初登場の機会をはじめ以後複数の機会に「 名称と用途がわかっても使用方法が判らない 」という「 問題 」もあることもあわせて語られている。
「 僕は、未知の道具の用途と名前を見る能力を持っている。
だが、その能力は使い方までは教えてくれない 」(霖之助、『香霖堂』第十一話)
「 まぁ、道具なんて用途さえ判れば何とかなるもんだが 」(霖之助、『香霖堂』第七話)
以後も複数の作品で霖之助が登場する際にこの能力が発揮されることがあり、珍品を取り扱う霖之助の店である「香霖堂」と合わせて作中で独自の活躍が語られることがある。
余談ながらこの複数の能力名について、ZUNによるものではない非公式の個別の商業作品の出版物や付録をみるとき、アスキー・メディアワークスによる『東方電子遊戯・図説』では「未知のアイテムの名称と用途がわかる程度の能力」(ただし『香霖堂』作中では「 判る 」の表記)の表記で紹介されており、他方のKADOKAWAによるコンプティーク2015年9月号付録の「東方Projectキャラクターデータベース」では「道具の名前と用途が判る程度の能力」の表記でそれぞれ紹介されている。
このようにZUN以外の制作による商業作品においてもどの表記を採用するかは分かれている。
霖之助自身や周囲の人々による解説と実績
霖之助によれば、自身の能力は先述の通り物の名称と用途を判別することができる能力であり、霖之助はこの能力を作中で都度発揮している。
本人がこの能力を嫌っている様子などは見られていない。
霖之助の能力は付き合いの長い霧雨魔理沙も理解しており、作中では魔理沙は霖之助の能力について「 名前が判る能力 」などとして表現している。
この能力は霖之助自身の人生の決断にも影響しており、魔理沙によれば霖之助はかつては「 霧雨家 」で修行していたが、後に独立した。独立の理由は、魔理沙によれば霖之助は
霧雨家の商品と顧客が人間では「 自分の『能力』が活かせない 」と判断したためで、名前も用途も判らない珍品であれば、それらを明らかにできる自身の能力を活かすことができるという想いによるものである。
作中で現在の霖之助の能力が発揮された実例として「霧雨の剣」がある。
これは魔理沙がミニ八卦炉の改修の交換条件として霖之助に要求されて持ち込んだ鉄くずの山から霖之助が見出したものである。霖之助は鉄くずに埋もれていたこの剣の正体を「名前と用途」を判別することで理解し、それにあわせて特別な対応を行っている。
詳細は「霧雨の剣」記事を参照。
「 香霖堂にまた一つ非売品が増えてしまった 」(霖之助、霧雨の剣の取り扱いについて『香霖堂』)
能力が生かされる場面としては作中では無縁塚での物品の蒐集(建前上は無縁仏の供養代、霖之助の言うところの「 報酬分 」)などの様子も描かれている。
無縁塚は幻想郷に迷い込み幻想郷で無縁のままに亡くなった外の世界の人々の火葬場所であり、冥界とも次元が近くなっている。そのため無縁塚は外の世界と冥界という二つの異世界の物品・珍品が手に入る環境にあり、霖之助は慰霊供養と珍品蒐集をかねてここを訪れている。
霖之助は無縁塚で探し当てるような幻想郷にはない物品が数多ある外の世界に想像を広げ、いまだ名前と用途しかわからず使用方法がわからない外の世界の品々に囲まれながら、外の世界へと思いをはせている。
作中時間以前のものとしては、魔理沙が霧雨家で(魔理沙の)「 親 」と霖之助が「 ヒヒイロカネ 」について口論する様子を覚えており、このとき霖之助が抱えていたという「 鉄くず 」がこの口論と何らかの関係があるようである。霖之助がその能力を通してこの「 鉄くず 」の名称や用途を見出すことができることと何か関係があったのかもしれない。
霖之助の能力が一種の鑑定として誰かの喜びに結びつくこともある。
例えば魔理沙がとある無名の石を持ち込んだ際などは、霖之助がその能力によってこれを鑑定した結果その名前が「 半導体 」であり、「 大きな道具のほんの一部 」・「 幾つか組み合わせて使う 」性質のもので、そうすることで「 式にありとあらゆることを命令できるらしい 」ものであると判ると、魔理沙は手にした石だけで何かできるものではないことを理解しつつ、「 取り敢えずお守りにでも使わせて貰うよ 」として「半導体」を帽子のリボンに飾り付けた。魔理沙は謎の石が単独では有用ではないながらもその正体がわかり、満足を得ることが出来たようである。
霖之助も「 具体的な使い方は判らない 」としつつも、「 ありとあらゆることが出来るのだからお守り程度には使えるのだろう 」と解釈している。(『香霖堂』十五話)
作中では道具とも関連して霖之助自身の倫理観が語られることもある(例えば『香霖堂』第十話)が、時には名前と用途だけとはいえ能力を通してまったく不明な品を部分的に理解できるという自身の能力をどのように活用するかという点において他者との関連を通して語られることもある。
こういった倫理観とも関連して、霖之助の考えの中には生物と道具の間の線引きもあり、「 生き物の身体 」は「 道具じゃない 」として取り扱わない。
例えば人間を人工的工場的(道具的)に生産するということについては、そういった想像が自身の頭に浮かんだ程度であっても「 生命を侮辱した罰当たりな想像 」であるとして嫌悪感をのぞかせて考察をすぐにそれを取りやめて自省するなどしている。
「 人間は道具では無いんでね 」(霖之助、『東方外來韋編』掲載版『香霖堂』第四話)
道具に関連しては霖之助の信念や心情が語られることもある。
霖之助は商売人としての顔を持つ一方で幻想郷のバランスを破壊するような物品をことさらに流通させることについて強い警戒感をもっており、特に外の世界の道具には先のような憧れと合わせて警戒も持ち合わせている。
時には(名前と用途の判別結果から見て)それが危険なものである可能性があるのならば珍品であっても誰かの手に渡らないよう自らの手で破壊するべきと判断して実行しようとすることもあるなど、霖之助は能力を活用しつつ個人の信念に基づいて行動することもある。
「 僕は、今の幻想郷が好きである 」(霖之助、『香霖堂』第十二話)
ただしその高い危機意識を喚起する物品の見立ても、実際には「名前と用途はわかっても使用方法がわからない」という能力の特性による理解の限界に由来する誤解であることもあり、一連の霖之助の焦燥が取り越し苦労となることもある(例えば『香霖堂』第十二話)。
そのような短所も持つ一方で他者からその能力が頼みにされることもあり、例えば博麗霊夢や魔理沙の他人間の里にも不可解な体の不調をもたらす「何か」が流行した際、霊夢はその対策として「名前のついていない古いもの」を捜して香霖堂を訪れている。
年代物の骨董品なども所蔵する香霖堂にして、霖之助の能力でもって「名前がついているかどうか」を判別できるとあって、霖之助のいる香霖堂はそれを求めるにあたって一挙両得の場所でもあった。また異変解決のためのアイテム探しというだけでなく、香霖堂は霊夢個人としても不調の体を安心して休めることのできる場所でもあり、同様に体調不良の体をおして香霖堂を訪れて寝込んでいた魔理沙と同じく、このときもまた霖之助在中の香霖堂が二人それぞれにとってオアシスとなっている。
能力と人柄の両面ともに作中でも霖之助の魅力となっている。
ただしZUNは霖之助の語る蘊蓄面については「 彼の妄想 」なので真に受けないように、ともしている(『香霖堂』)。
能力の限界
先述の通り霖之助の能力は「名前と用途は判る」が「使用方法は判らない」というものである。この特性による作中での出来事の一例も先のようなものをはじめ複数語られている。
ただしこれは同時に、使用方法がわからないために霖之助が独自に解釈したり想像を巡らせたりする余地ともなっており、今日の幻想郷的な物事の理解にもつながるという独自性にも結ばれている。先のように解釈が危機感の高まりに至ってしまうという本人にとっては緊張感のあるものとなることがあり、魔理沙からの評のようにそれが何であるかについて理解したいという需要に対して十全に応じきれないという点で実用にいまひとつ乏しいという欠点でもあるが、幻想郷には幻想郷の解釈の在り方や理解の流儀があり、また魔力など幻想郷ならではの実際があるため、使用方法が不明な物品を理解しようと努める霖之助の思考を通して幻想郷の理解が促進されることともなる。
これ以外の限界的特性として、「名前」を判別することが出来るが、「元々名前がない」ものについては名前がないためになんらかの「名前」を判別することはできない(後述)。無い袖は振れない。
「名前」
この「名前」という事柄については、作中では次のような要素もまた語られている。
「名前」には、霖之助によれば「 『物の性質を表す名前』 」と「 『物の性質を決定づける名前』 」の二種がある。前者は「モノ」そのもの特徴、道具であれば「用途」などを名前の由来とするものである。
後者は前者のものの様に名前を付け得るだけの特徴的な性質が定まっていなかったり、単に他の何かと区別する目的で命名されたるするパターンである。霖之助は「 人名 」、「 妖怪の個人名 」、「 商品名 」などがこちらのパターンであるとしている。
後者の場合、もともとある特性を参考にして後追い的に名前を付けるのではなく、特性がまだ「定まっていない」状態のものに名前を付ける(名前から対象を定義する)ということもあって、名前がそのものに与える影響力が大きい。
命名時点から「名は体を表す」のが前者のパターンで、名前というものが対象のものを以後形作っていく過程に影響するのが後者のパターンである。
後者は名前からの影響を受け続けた結果、後に「名は体を表す」と言われるような状況が生まれてくる、といったところだろう。
霖之助は例えば「八雲紫」の名前を通して、「博麗神社の巫女」という存在との関係性について分析している。
また世界の成り立ちにまでさかのぼる時代における元来の混沌の世界にあっては「 あらゆる物には名前は付いていない 」状態にあり、「 太古の神々 」が「 この世の物一つ一つに名前を付けて 」いったことではじめて生まれたものである。
神々も本来は名を持たない存在であり、「 本来の姿のままの神々 」は「 名前を付ける以前の物にしか宿ることは無い 」。「名前がない」ということは「 認識レベルでは他の物との区別がつかず、世界と同化 」するということであり、これは「 神の本来の姿 」に近いとする。
名前を付けることは要素の枠組み、境界を生み出して特定の範囲内に定義することであり、これは制限を生み出すことでもある。霖之助は「名前」によって制限されることの無い「神々」について、「 元々の神々はもっと姿形も曖昧で、名も無きものと区別も付かなかった 」としている。
この「名前を持たない」という状態について、ZUNは純狐の「 純化の力 」と関連して語っており、それは「 モノに名前が付く前にあった、純粋な力 」であるとし、「 名前が付いてしまったら、神としての性質はなくなる 」としている(『外來韋編』)。
霖之助自身は「名前のないもの」を積極的に名付けていくことには否定的で、「 自分の能力で名前が視えない物に関しては、深く記憶を探らない 」としている。名前がないものに名前を付けることは、霖之助によれば「 神の力を無断で借りる行為 」で、「 己の驕りでしかない 」としている(『香霖堂』十五話)。
香霖堂店主の活動
『香霖堂』以外の作品でも霖之助が登場する際にはその能力、またはその能力の応用がストーリーの中に織り込まれることがある。
『東方文花帖』では霖之助は「 水煙草 」を入手したが、例によって「 水煙草 」という名称と「 非常に長い時間をかけてゆっくり楽しむことが出来る煙草 」という用途は判ったものの、ではどうやってこれを煙草として楽しむのかという使用方法
が判らなかった。使用方法が判らないためか、霖之助は水煙草としての機能ではなく水煙草に用いる器具の装飾性に価値があるではないかとしてその希少性を推しつつ「 観賞用 」としてその時取材に訪れていた射命丸文にこれを売りつけようとしていた。
ただし後日の文の再取材の際には使用方法が判ったとして非売品へと移している。
『東方鈴奈庵』では魔理沙や本居小鈴が持ち込んだ「 奇妙な木版 」についてその能力を通して「 ウィジャボード 」という品であると鑑定した。
併せてこの品について霖之助は長時間説明を行っており、この様子について小鈴は霖之助を「 博識 」と感じたが、魔理沙は実際には霖之助の蓄積した知識ではなく能力によって今日初めて得た情報だったことだろうと想像している。
「 判りすぎるから彼奴の説明は空想が過ぎるんだよ 話半分に聞くに限る 」
(魔理沙、『鈴奈庵』)
余談ながらこのときの霖之助のイメージカットには『香霖堂』に登場する「 河童の五色甲羅 」と思しきものや「 萃 」の文字が表示されたコンピューターらしき品などが描かれている。
その後の『外來韋編』掲載の『香霖堂』では、近年の蒐集状況について入荷品そのものの数は多いものの質の面で「 マンネリ化 」してきたと感じていたこともあって香霖堂の廃業を視野に入れていた。
しかしふと店を訪れた宇佐見菫子によって霖之助の世界は大きく変化する。
霖之助は菫子の来店によって憧れであったリアルタイムの外の世界と触れる機会を得、この出会いを通してその心持ちも前向きなものへと転じていった。
菫子と出会うまで霖之助は退屈の混じる隠遁めいた状況をなかば良しとしようとしていたが、菫子と出会って以後は他人との交流にもう一度開かれ、商売人としても活動したいと思うようになるなど、人生観までも変化している。
このときの霖之助の衝撃の導入となったものもまた自身の「 見ただけで道具の名前と用途が判る能力 」(霖之助)であり、このときは菫子が持っていた「 スマートフォンという代物 」が菫子を通したリアルタイムの外の世界とのファーストコンタクトとなっている。この時霖之助が能力を通して見た内容によれば、菫子に見せてもらった道具の名前は「 スマートフォン 」で、用途(特に「 真の用途 」)は「 自らの情報の無償提供 」である。
この菫子との交流がいかに重要なものとなっていくかは『東方茨歌仙』でもそれが断たれるようなことがあったら困るのではとする茨木華扇への霖之助の反応の一端として垣間見ることが出来る。
霖之助はオカルトボールにも興味を示しているが、華扇は霖之助の名前と用途が判る能力があったならばオカルトボールに仕掛けられていた「 罠 」を早期に見抜けていたかもしれないとし、もしオカルトボールを手にしていたのが霖之助であったのなら、といった想像も広げている。
先述のように霖之助は生物と道具の間に一定の線引きをしているが、ある品を通して、では、「生命のような機械」はどうだろうかというテーマと向き合うこととなる。
この際にも霖之助の名前と用途が判る能力と菫子の知識が協働することとなるのだが、しかし二人だけではその真相に迫ることが出来ず、霊夢をはじめ他の幻想郷の知見の協力も仰ぐこととなる。
菫子による情報とモノの両面での新風の到来はその後の香霖堂にも影響を及ぼしており、文々春新報が取材した際には香霖堂の品ぞろえはかつてないほどに充実していたとしており、取材に応える霖之助自身も鋭気に満ちている。
また香霖堂を通した幻想郷と外の世界のミックスは菫子や霖之助の間柄だけに留まらない。
例えば昨今人気となっているという今泉影狼が香霖堂ではじめた遊戯は「 外来人 」(おそらくは菫子か)から得た情報を基に霖之助が「 幻想郷流にアレンジ 」したものを影狼に伝えたという経緯があり、『香霖堂』で語られたような能力も通した霖之助と菫子の交流は今日の幻想郷に新しいムーブメントを生み出してもいる(『東方文果真報』)。
能力面も(その欠点や欠点を受けたその他の知識や実践やアイデアによる対応も含めて)健在であり、霖之助が文々春新報にコラム兼広告を寄稿した際にはその能力を通して「 タブレット 」(タブレット端末)なる「 文鎮 」の可能性について熱く語っている。
稗田阿求曰く
稗田阿求は今代の「幻想郷縁起」において霖之助の人となりと並んで能力についても記述している(『東方求聞史紀』)。
「 道具の名前と用途が判る程度の能力 」の名称もこの阿求の記述に登場している。
阿求によれば「 見ただけで名前が思い浮かび、名前を口にしただけでどういう用途に使うのかが想像できる 」能力であるとしている。同時に、先述のように「 使用法までは判らない 」ことは欠点であるとし、蒐集した物品のほとんどは「 自分で使用法を調べなければならない 」としている。
一部の品は使用方法を理解して使いこなしているようで「 外の世界の高い技術の恩恵 」を受けられているものの、霖之助は理解した品々を「 非売品」にして手放さないようになるという行動傾向についても記述している。
阿求は霖之助について「 商売向きじゃない店主 」、「 商売をする気が有るのか判らない 」(そして阿求は注釈で霖之助にそんな気は「 無い 」と断言している)と評しており、これは霖之助の自己評価(『香霖堂』)とも一致している。
「 ただ、店主との話は適当に切り上げないと中々終わらない 」(阿求、「幻想郷縁起」、『求聞史紀』)
霖之助と阿求は直接の面識があるようで、霖之助は対話を通して体験した阿求の記憶に関する能力と稗田家を訪ねた際の様子を魔理沙に語っている(『香霖堂』)
なお、阿求の「幻想郷縁起」は霖之助の紹介項目において香霖堂が扱う商品の一部を記載しているが、同書巻末の参考文献には「 『香霖堂目録』 」との記載があり、当該の記述には香霖堂からの資料提供があった様子を見ることが出来る。
余談ながら、霖之助が取り扱うような外の世界の道具について、阿求自身は「 直感で使い方が判らない物が多すぎる 」と愚痴をこぼしている(「幻想郷縁起」、『求聞史紀』)。