来歴
プロ入り前
鹿児島県桜島町にて3人兄弟の末っ子として生誕。兄に同じくサッカー選手となった遠藤彰弘がいる。
6つ上の長兄と4つ上の次兄の影響を受け、保仁も物心ついた頃から自宅の庭先でボールを蹴り、高校選手権やワールドカップの映像を見て気に入ったプレーを真似していたと語っている。当時から保仁(やすひと)を鹿児島弁で発音した「ヤット」と呼ばれていた。
名門・鹿児島実業高等学校時代には高校選手権優勝(1年)、高円宮杯優勝(2年)と立て続けにタイトルを経験、U-16日本代表にも選出されている。
横浜フリューゲルス・京都パープルサンガ時代
1998年に横浜フリューゲルスに入団。同年の3月21日に行われた開幕戦の対横浜マリノスとの横浜ダービーでいきなりプロデビュー、8月1日の鹿島アントラーズ戦でプロ初得点など、プロ1年目で16試合に出場し順調な滑り出しと思われたが、同年に同クラブが消滅した為、翌年には京都パープルサンガへ移籍。
同時期に京都に所属していた選手に「キングカズ」三浦知良と、後にイングランドの超名門マンチェスターUtd.へと移籍する朴智星(パク・チソン)が居た。
ここでもレギュラーを獲得するも、2000年に京都がJ2へ降格した事をうけ、翌年ガンバ大阪へと完全移籍。
ガンバ大阪時代
ガンバでは2002年に監督に就任した西野朗の掲げた攻撃的なスタイルの中心人物として、ガンバに移籍して3年目の2003年に初のJ1ベストイレブンに選出されるほどの活躍を見せていた。そして、在籍していた20年間で9回の主要タイトルに貢献。
2012年に降格を経験するも残留し、翌2013年に昇格を決め1年でのJ1復帰を決めると、2014年には国内3大タイトル制覇を達成し、34歳にしてJリーグMVPに選出された。
その後も主力として活躍し、2020年には40歳を迎えた。同シーズンには「選手である以上はスタメンで出たい。常にアピールしていきたい」と口にしていたが、J1リーグ第20節終了時点で出場はJ1リーグ11試合363分、ルヴァン杯2試合100分のみとなり、開幕戦こそフル出場したものの、新型コロナウイルス感染拡大の影響による中断から再開後は先発出場したリーグ戦2試合、ルヴァン杯1試合を含め全て途中交代にとどまり2戦連続のベンチ外も経験した。宮本恒靖監督による世代交代の狙いもあったとされるが、これによりガンバサポーターの宮本監督への不信が募ってしまった。
20年ぶりの新天地
そんな中で、純粋にサッカーをしたいという思いで、出場機会を求めて2020年10月5日、J2リーグのジュビロ磐田に期限付き移籍することが発表された。当然ながらガンバサポーターはもちろんのこと、それ以外のクラブのサポーターにも衝撃を与え、「ガンバと代表以外のユニフォームを着る姿が想像できない」との声も上がり、大きな反響を呼んだ。
その後、第29節のザスパクサツ群馬戦で直接FK弾でゴールネットを揺らした。その後2021年12月末に完全移籍となり、主力として活躍している。この時も大きな反響を読んだ。この年、磐田はJ2リーグを優勝して2019年以来のJ1復帰を果たした。
2018シーズンに楢崎正剛が引退したため、以降は横浜フリューゲルスに所属していた最後の現役選手となっている。
現在はYoutuberとしても活躍。彼のチャンネル「YATTV」では普段の冷静な印象とは裏腹にハイテンションな姿が見られる。2012年には、他のJリーガーの一部選手とともに『劇場版名探偵コナン 11人目のストライカー』にゲスト出演したが、その演技はある意味必見である(なお、2018年に放送された『Jリーグの用心棒』で再登場した時には年齢が増えていた為、コナンの世界で唯一サザエさん時空が適用されなかった人物となっている)。
2022年は磐田戦士としてJ1リーグに復活。ここでも多くの試合に出場したが、前年J2得点王であったルキアンがアビスパ福岡へ行ってしまったこと、J2優勝へ導いた鈴木政一監督が体調不良のために退任して伊藤彰監督が就任して再びチームを作り直さなければいけなかったこと、ルキアンの穴埋めとして期待された杉本健勇がPKによる1点のみで終わったことなどが影響して、チームは大苦戦してしまう。0-6で大敗した浦和レッズ戦終了後からJ1最下位になり、33節の古巣ガンバ戦で2-0で敗北。1試合残してJ2降格決定、結局1年でJ2へ逆戻りしてしまった。パトリックに2点目を決められ、その直後に肩を落とす彼の姿がDAZNのハイライト動画で確認できる。ちなみにガンバも残留争いの渦中にあったが、最終節で残留を決めている。
J1最年長アシスト記録は塗り替えたが、プロキャリア初めての公式戦無得点に終わり、20年以上続いた公式戦連続得点記録は2021年で途絶えた。
引退
2023シーズン、1年でのJ2降格となったジュビロは、シーズンを通して自動小各県にいなかったものの最終節で栃木SCに勝利して自動昇格を争うライバルの2位清水を抜いてリーグ戦2位に浮上して1年でのJ1復帰を決めた。
しかし、遠藤自身は1年を通して中盤まではレギュラーとして試合に出場していたが、シーズン中盤以降はスタメンを外れベンチスタートやベンチ外になることも多くなっていた。
そして2024年1月9日、現役引退を発表。25年間の現役生活に幕を閉じた。引退後はガンバ大阪のトップチームコーチに就任することが発表された。
また、彼の引退によって、横浜フリューゲルスに所属歴のある選手は全て引退し、フリューゲルスを知る現役選手は1人もいなくなった。
A代表歴
A代表(フル代表)には2002年の日韓共催ワールドカップ後に招集される。
同年の11月20日に行われたアルゼンチン戦でA代表デビューを果たし、2003年8月20日のナイジェリア戦で初得点をマーク。現在まで9得点を記録している。
2010年に行われたFIFAワールドカップ南アフリカ大会、グループステージ第3戦の対デンマーク戦では勝利を引き寄せる2点目を、得意のフリーキックで決めている。この時に1点目となった本田のフリーキックとあわせ、1試合に2本のフリーキック成功は実に44年ぶりの快挙であった。
2011年1月に開催されたアジアカップでは、招集された全選手中最年長かつ最多招集数として若返りを図ったチームを引っ張り支え、日本の攻守を徹底的にコントロール。決勝のオーストラリア戦で決勝点となった李忠成のダイレクトボレーも、遠藤のキープとパスが起点となった。
この大会でMVPに選出された本田圭佑も、「個人的にはヤットさん(遠藤の愛称)だと思う。」と語っており、彼を真のMVPとする声は非常に多い。
プレースタイル
日本・・・、いやアジア最高のプレーメイカーと評する声は後を絶たない。
長短及び浮き球・グラウンダーを問わない変幻自在のパスは、ガンバでもサッカー日本代表でも欠かす事の出来ないパーツとして重用されている。(同時に遠藤を欠いた場合の戦術に不安があると言う声も多い)
またペナルティキックは遠藤の代名詞とも言え、ボールを一切見ず相手ゴールキーパーだけを見据え、ピッチを転がるようにゴールマウスへとボールを蹴り込むその独得のスタイルは、マスコミから「コロコロPK」と呼ばれ、2008年のFIFAクラブワールドカップの対マンチェスターUtd戦においては、名手エドウィン・ファン・デル・サールをも手玉に取っている。
メイン画像について
さて、メイン画像についてだが・・・
なぜガチャピンとセットになっているのか?
遠藤の顔を見ていただければ良くおわかりいただけるであろうが、顔がとにかくソックリなのである。
2005年には共演も果たし、ガチャピンから「似てるって言われない?」と聞かれ、「昔は似ていると言われていた」と返しており、公式ネタである。
実際スタジアムにガチャピンのぬいぐるみやイラストを掲げて遠藤を応援するサポーターの姿は多く、Pixivでもそういうイラストは数点確認できる。(関連イラスト参照)
また、コラボ商品も発売している。
関連イラスト